星のかけらを集めてみれば - 灯鈴あかりすず -

作:澄川 櫂

2.ランチのお誘い

 ホイール魔導学院は、初等部から大学院までを備えた一大教育機関である。その名の通り、魔法に関する知識と技術を専門に教える施設で、魔法都市国家ホイールの中核をなしている。
 学院の歴史は古く、史書に名を残すほど卓越した魔導師を幾人も輩出してきた。故に、所有権を巡る周辺諸国同士の争いが絶えなかったが、五百年ほど前に永世中立地域として独立。今では周辺国はもちろんのこと、大陸南西部における魔導の総本山として、揺るぎない地位を占めている。
 その広大な敷地の一角、官舎地区の大十字でラッセルと別れたミーナは、西日を背にしばし自分の影を追いかけると、左手の丘に向かって延びる小道に折れた。石畳の階段を息を弾ませながら駆け登る。
 建物の合間から射し込む西日に時折目を細めつつ、少し斜角を増した階段を登りきったところで、ミーナはいつものように足を止めた。
 建物の群がぷつりと切れ、不意に開ける丘の真ん中を、僅かに弧を描いて延びる一筋の小道。なだらかな丘陵の先にはこんもりとした森があり、その木々の緑をバックに建つ官舎の赤い屋根が、橙色の日差しをいっぱいに浴びながら彼女の帰りを待っている。
 この光景を眺めるひとときが、ミーナは好きだった。不思議と心が安らぐ。郷愁を誘う風景と言ってしまえばそれまでだが、西日に染まる官舎が自分を暖かく出迎えてくれている気がして、どことなくほっとするのだ。
 いつものように見とれかけたミーナだったが、今日は時間がないことを思い出し、慌てて駆け出す。果たして、玄関の戸を開けるのとほぼ同時に、門限を告げる鐘の音が鳴り始めるのだった。
「滑り込みセーフかよ」
 舌打ち混じりのその言葉は、ミーナが息を整えるまもなく投げかけられた。肩で息をしながら顔を向けると、小柄な獣族の少年が戸棚の上にあぐらをかき、縁に手を突いてこちらを見下ろしている。
 藍色と黒の混ざったしなやかな毛並みに、ビー玉みたいな水色の瞳。まるで途中でちょん切れたかのような中途半端な長さのしっぽが、その背後でぴょこんと揺れた。
「せっかく閉め出せるかと思ったのになぁ」
「へっへー、残念でした」
 心底悔しそうな声で続ける彼に、べぇと舌を出して応えるミーナ。小熊猫族コロパンクルのニケは容姿こそ愛くるしいが、性格の方は意地悪そのものだ。こう見えてミーナより年上らしいのだが、敬おうなどという気持ちはもはやこれっぽっちも残っていない。
「あ、そーゆー態度とるんだ。せっかく人がぎりぎりまで待っててやったのに」
「誰もあんたに鍵番なんか頼んでません」
「ボランティアってやつだ。決まりを破ったらどうなるか、ちゃんと教育しないとならないからな。なんて後輩思いな俺様」
「そんなセリフ、貸しの一つも返してから言いなさいよ」
 ほとほと呆れてそう言い置くと、バンダナを解きながら自分の部屋へと向かうミーナ。
「なんだよ、貸しって」
 ぴょんと飛び降りて後を追うニケが、心外そうな声を出す。
「朝の水汲み」
「……う」
「毎日滞りなく済んでるのはなぜかしらねー」
 今ではすっかり彼女の日課となっている朝の水汲みだったが、本来はミーナとニケが交互に当番することになっていた。だが、朝の弱いニケがまともにこなしたのは、ミーナの記憶する限り片手で数えるくらいしかない。
「そ、そこは黙って先輩の顔を立てるのが、かわいい後輩の……うわっぷ!」
「全くこの子は、誰のおかげで楽できてると思ってんだい」
 顔に張り付いた布巾でもがくニケに向かって、威勢の良い声が飛ぶ。台所の戸口に立ったナーシャ——ニケの祖母だ——が、腰に手を当てて彼を見据えていた。
「働かざるもの食うべからず。せめてテーブルくらい拭いてきな」
「……へーい」
 くるりと背を向け、とぼとぼと食堂へ歩いて行くニケを見送って、ナーシャは視線を上げた。小柄な小熊猫族コロパンクルの背丈は、大人でもミーナの肩に届くほどしかない。
「お帰り、ミーナ。えらく遅かったじゃないか」
「ちょっと、いろいろあって」
「レイも心配していたよ。ちゃんと顔を出して挨拶してきた方が良いんじゃない?」
 ニケと同じ水色の瞳で諭すように問われて、ミーナは言葉に詰まった。助手扱いの身にとって、学業はもちろん、衣食住のいっさいを面倒みてくれる担当教授は、ホイールにおける保護者でもある。それだけに、心配かけたとあってはきちんと理由わけを説明する義務があるだろう。
「……そうする。ありがとう」
 その足でまっすぐレイハールの部屋に向かったミーナは、一つ深呼吸してから扉をノックした。少し緊張しながら自分の名前を告げる。「どうぞ」という声にもう一つ深呼吸して中に入るや、ミーナはぺこんと頭を下げるのだった。
「ただいま帰りました。遅くなって申し訳ありません」
「どうやら、ぎりぎり門限に間に合ったようね」
 窓に映る黄昏時の光景を眺めていた銀髪のレイハールは、ゆっくりとミーナを振り返った。三十代後半の、眼鏡が似合う尖耳人トカリの女性だ。その声のトーンがどことなく冷ややかな気がして、恐る恐る顔を上げるミーナだったが、眼鏡の奥で自分を見つめる瞳は、想像に反して優しい光をたたえていた。
「今日はまた一段と遅かったけど、どうしたの?」
 穏やかに尋ねるレイハールは、ミーナが手にするバンダナを見て、僅かに目を見開いたようだ。「あら、それ」と言葉を続ける。ミーナが事情を説明すると、レイハールは納得顔で頷くのだった。
「やっぱり、ラッセルくんのバンダナか」
「あの、知ってるんですか? ラッセルくんのこと」
「もちろん、先生だもの」
 その答えに、ミーナは目をぱちくり。きょとんと固まる彼女の様子に、レイハールは笑った。ミーナがそうした意味以外で尋ねたと知りながら、からかったのだ。
「私の同期の息子さんでね。こーんな小さな頃から知ってるわよ。彼のことが気になる?」
「あたしの角を見ても全然驚かなかったから。きれいなのに隠すのもったいない、て……」
「ラッセルくんにとっては、それが自然なことなのよ。ここに来るまで、同年代で同族のお友達は一人もいなかったからね」
「え? そうなんですか?」
「彼の生まれたトーレイの砦には、そもそも子供がほとんどいなかったから。お姉さんとも歳が離れていたし。それで、近所の狐人スマリの子や、そこに来るいろんな種族の子と余計に仲良くなったのね」
 レイハールの言葉に、森で出会ったもう一人の少年、リュートの姿を思い出す。彼の容姿に比べれば、確かに自分の角くらい、なんてことないかもしれない。
 などと思いながらのほほんと話を聞いていたミーナは、続くレイハールの言葉に跳び上がりそうになった。
「特に狐人スマリとは家族同然の関係みたいで、そのバンダナも、狐人スマリの長から誕生日祝いに貰ったものなんだそうよ」
「——え!?」
「……どうしたの?」
「そ、そんな大切なものだったなんて。あたし、どうしよう……」
 初対面に近いにもかかわらず、彼は迷うことなく宝物を貸してくれたのだ。ミーナの角に対する想いを酌み取って。ラッセルはミーナの何倍も自分を信用してくれた——。
 両手でバンダナを持ったまま、声もなくおたおたするミーナ。レイハールが苦笑する。
「別に失くしたり汚したりした訳じゃないんだから、普通にお礼を言って返せば良いことじゃない」
「でも……」
「ラッセルくんだって、そんなに気にしていないと思うけど?」
 レイハールはそう続けたが、ミーナ自身はなかなか受け入れられなかった。親しく会話を交わせたことが余計に申し訳ない気持ちを連れてくる。
「だったら、何かお礼を持って行くのはどうかしら」
 ぱっと顔を上げるミーナに、レイハールは微笑みながら頷いてみせた。

 翌日——。
 レイハール先生に貰った帽子を被るミーナは、朝一でポー先生の研究室を訪ねた。来意を告げると、ポー先生は土爪族モーラの大きな手を口元に当て、奥に向かって呼びかける。
「ラッセル、お客さんだぞ!」
「はーい」
 短い返事が微かに聞こえた。ほどなく研究室の外にまで漏れていた物音が止み、ラッセルがひょっこり顔を見せる。
「あ、ミーナ。おはよう!」
 ミーナの姿に気付くと、彼は笑顔で迎えてくれた。すぐさまぱっと駆けてくる。
「おはよう、ラッセル……くん」
「ラッセルで良いよ。ご用はなぁに?」
「あの、これ、ありがとう」
 ミーナは胸に抱えていた包みを解いて、ラッセルに差し出した。青地にコミカルな狐柄の刺繍が入ったバンダナ。昨日、彼に借りたものだ。
「いーえー。別にこんな急がなくても良かったのに」
 そう言いながらも、ラッセルは受け取ったバンダナをいそいそと頭に巻くのだった。
「よしっ」
 そうして気合いを入れたのもつかの間、
「……あ、外したままでいたのだいぶ久しぶりだったから、なんか落ち着かなくて」
 指先で右の頰を掻きながら照れ笑いを浮かべるラッセル。
「朝早くにありがとね」
「い、いえ! それで、お礼代わりにサンドイッチ作ってきたんだけど、良かったらお昼、一緒にどうかな、て」
「ホントに? やった!」
 おずおずと続けたミーナの不安とは裏腹に、ラッセルは喜びを露わにした。
「今日はいつものパン屋さんがお休みだから、お昼どうしようって思ってたんだー。先生、植物園の東屋、使ってもいい?」
「いいよ。ただ……いや、ゴミはちゃんと持ち帰るようにな」
「はーい!」
 なにやら言い澱むポーの反応が気になるミーナだったが、ラッセルの方はと言えば、そんな様子などどこ吹く風とばかりに言葉を続ける。
「植物園の場所は判る?」
「えっと……ちょっと自信ないかも」
「西の噴水広場は?」
「大丈夫」
「じゃ、そこで待ち合わせよう。時間はどうしようか」
「お昼休み終わる頃でも平気?」
「先生?」
「分かった分かった」
 苦笑するポー先生。
「決定〜!」
 おどけた口調で言ってにっこり笑うラッセルに、ミーナもまた微笑んだ。