星のかけらを集めてみれば - ヒトのかたち、想いのかけら -

作:澄川 櫂

4.リリィの事情

 絵札を書き終えると、リリィはそれを宙にかざした。瞳を閉じて念を込め、厳かに名前を呼ぶ。
「ウィド!」
 瞬間、手にしたカードが眩い光を放った。スレイプやフレイルを呼び出したときとは比べものにならないほどの、鮮やかな輝き。思わず瞼を伏せるミーナ達が、ゆっくりと両目を開いた時、そこには一匹の新たな絵獣かいじゅうが出現していた。
 若草色の丸い体に、細長く伸びた銀の羽。体の大きさは握り拳を二つ並べたほどだが、羽はだいぶ長さがあり、全体としては両腕を横に広げたくらいのサイズとなる。目も鼻も口もないのっぺらぼうにもかかわらず、くるりと回転して左右に体を揺らす様子には、どことなく愛嬌がある。
 その姿を目にしたミーナとラッセルは、どちらともなく顔を見合わせた。
「あの、リリィさん、これ……」
 困惑顔でミーナが振り向く。ラッセルもまた、同じようにリリィを見つめた。金色のくりくりまなこに戸惑うような光が浮かんでいる。
「わかる?」
 リリィはくすりと笑って、二人の視線を飛び回るウィドの方へと促した。
 くるくると宙を舞う珠の羽ウィドの下に、長いしっぽをピンと水平にのばしたリュートがいる。興味津々の体で見上げる彼の目は、文字通りウィドに釘付けのようだ。
 と、ウィドの方でもそんな彼の視線に気付いたようである。宙返りを途中でやめると、すいとリュートの元へ寄った。わずかに体を傾げ、しげしげと彼の顔を見つめる。「お?」と半身を引くリュート。
 ウィドは全身を小刻みに震わせると、ひときわ大きな弧を描いた。キューイ、というトーンの高い声を発し、天高く舞い上がる。体をひねるウィドの細い羽が、陽の光を受けてキラリと輝いた。
 そうしてひとしきり舞い終えると、ウィドは再びリュートの元へと戻った。怪訝そうな表情を作る彼に構わず、片方の羽を差し伸べる。まるで握手を求めるかのように。
 リュートが躊躇いがちに、それでもしっかりとそのさきっぽを掴むと、ウィドは興奮した様子で羽を振り回すのだった。
「な、なんなんだよ」
 ひとしきり揺さぶられたリュートは、地べたに座り込んで当惑の声を上げた。少し目を回したのか、右手で頭を押さえながらリリィの方を見やる視線は、どこか視点が定まらない。
「ずいぶんと気に入られたみたいね。さすがはウィドのモデルさん、と言ったところかしら」
「おいらが!?」
 リリィのその言葉に、リュートは驚いて跳ね起きた。弾みで銀色の飾り羽根がふわりと揺れる。
「ええ」
 リリィはゆっくりと頷いた。
「だって君のその羽根、とっても素敵なんだもの。西日を受けて光るだなんて最高じゃない。そう思ったら、ウィドの姿が自然と思い浮かんでね」
 それはリリィの正直な気持ちだったが、リュートは話半ばにしてぷいと顔を背けた。そのままゆっくりと遠ざかってしまう。
「……なんか悪いこと言っちゃったかな?」
 不安に思うリリィだったが、想像に反して、ミーナとラッセルは笑顔を見せた。
「そんなことないですよ。ね?」
「うん。リュート、すっごい喜んでるし」
「え?」
 耳を疑うリリィに、ラッセルはくすくすと笑いながら、小声でリュートを指さした。
「ほら、リュートのしっぽ、先っぽが少し揺れてるでしょ?」
 言われてみれば、リュートの若草色のしっぽの先端が、微かにではあるが右に左にひょこひょこ動いているのが判る。
「あれ、ご機嫌の印なんだ」
 ラッセルは心底おかしいといった感じで続けた。
「リュート、照れるといつもああなんだよ。どんなに隠したって、しっぽですぐ判っちゃうのにね」
「ねー」
 そんなもんなのか。改めてリュートを見やるリリィ。表情だけ見ると少し不機嫌そうに思えてしまうが、相変わらず後をついて回るウィドを追い払わないところからすると、二人の言うとおりなのかもしれない。
 素直にそれを信用することにしたリリィは、広げたお店の片づけにかかった。ペンとパステルをそれぞれケースに入れ、ゴム紐で一つに結わえる。用具袋を引き寄せてそれらを中に入れると、内ポケットの呪符紙を確認してボタンを締める。
 と、
「リリィさん、これは?」
 一つだけ残されていたスケッチブックに気付いたミーナが、それを拾い上げてくれた。
「あ、いけない。ありがとう」
 礼を言って片手で受け取るリリィ。が、スケッチブックのリング側を手にしたのはまずかった。不意に吹いた風に煽られて、ページがぱらぱらとめくり上げられる。その拍子に、挟んでいた紙切れが一枚、隙間から落ちて宙を舞った。
「わわっ!」
 思いがけず顔で受け止めることになったラッセルは、鼻先を包み込むようにして張り付いたそれを狼狽しながら引き剥がす。そうして程なく「あ」と声を上げたのは、紙切れに描かれた生き物が初めて目にするものだったからだろう。
 それは一見すると猫のようだったが、背中には大きな翼が生えていた。しなやかなボディライン。対照的に太くて逞しい四肢。若干アンバランスではあるけれど、コミカルなタッチが功をそうして、紛れもなく一個の獣の姿を形作っている。
「かっわいー!」
 傍らからのぞき込んだミーナが歓声を上げた。爛々と目を輝かせながら、リリィを向いて尋ねる。
「この子もリリィさんのパートナーなんですか?」
「え、ええ。まあ……」
「でもこれ、色が付いてないね」
 ラッセルがめざとくそのことに気付いた。
「呼び出されっと、色、消えんだよな?」
 いつの間に戻ってきたのか、リュートが傍らに立って視線を上げる。エメラルド色の瞳に浮かぶのは、質問ではなく、確認の表情。そう、彼にまとわりつくウィドのカードは、今は色を失い、単なる線画としてリリィの懐にある。
 それはただの落書き、と言いかけたリリィの言葉は、だが、口の中で消えてしまった。ラッセルと目が合ったからである。
 少し黄ばんだスケッチ用紙を両手にたたずむ狐くんは、なによりも先に「色が付いてないね」と言った。狐人スマリにしては珍しく魔法の心得がある彼のこと。そこに染み残っているリリィのマナを敏感に嗅ぎ分けたに違いない。
 リリィは先に、絵獣を創るには呪符紙の用意が要ると告げた。にも関わらず、ラッセルは絵に色が付いてないことを指摘したのである。表情がどことなく当惑して見えるのは、手にした紙の材質やサイズが呪符紙とはまるで異なるからだろう。だが、それこそリリィのマナに気付いたという証ではないか。
 そこまで思い至った途端に、リリィは全身から力が抜けるのを感じた。これはごまかせないな。深く長く、息を吐く。
「――盗られちゃったの」
 ややあって小さく漏らしたその一言に、三人は顔を見合わせた。
「盗られた、て……」
「色々あってね」
 そこで言葉を切ったのは、個人的な事情を初対面の、それも年下の彼らに聞かせる理由はないと思ったからだ。そもそも他人にはあまり聞かせたくない話である。
 だが……。リリィは思い直した。
 いかに年下と言えども、彼らは命の恩人である。見ず知らずの自分のため、三人は危険を冒して戦ってくれた――。
 リリィは改めて三人の顔を見た。気落ちしたように見えたのだろう。ミーナとラッセルが揃って心配顔で見つめている。リュートもまた、気まずそうな表情をしていた。まるで、自分が悪いことを口にしたから、とでも言いたげに。
 リリィは慌てた。彼らには単に助けてもらっただけでなく、食事をご馳走になった。安眠までさせてもらった。一宿一飯の恩、というのは大げさかもしれないが、事情をきちんと説明するのが筋と言うものだろう。
 ようやく心を定めたリリィは、顔色を伺うリュートと視線が合うや、微笑んで見せた。三人の表情が微かに和らぐのを確認して、静かに、だが、よく通る声で尋ねる。
「少し長くなるけど、いいかな?」
 こうして彼女は、事の発端にまつわる話を語り始めるのだった。

 リリィはすぐそこの街道をずっと南に行ったところにある、ルーエンという山間の町で生まれた。父は地元でそれなりに名の知れた絵術士。母は歴史学者を生業とし、副業で童話絵本を書いていた。
 リリィは絵術士の能力を父から、画風を母から受け継いだ。絵描きの家系らしく、物心付いた頃にはパステルを握り、心の赴くままに絵を描いて遊ぶ日々を過ごしていたが、実際に絵術士としての才能を備えていることが判ったのは、彼女が八歳の時である。
「ある日、父が絵獣かいじゅうを生み出すところを覗き見してね」
 リリィの父は創った絵獣を呼び出すところは見せても、創る瞬間は誰にも見せようとしなかった。自宅裏の作業小屋にこもり、愛娘のリリィにも「決して覗いてはならぬ」と常々言い聞かせていた。
 今にして思えば、父はリリィに絵術士の能力があると察していたのだろう。だが、そのことを口にしたことはなかった。だから覗き見を禁じる理由もしかとはリリィに告げなかった。それ故、リリィは好奇心を抑えきれずに、父の絵獣が生まれる瞬間を目にしてしまったのである。
「あのときのことは、今でもはっきり覚えているわ」
 窓下からそーっと覗き込むと、父の背中が見えた。手にした呪符紙を顔の高さに上げ、なにやら念じるような様子。と、父の体から白っぽい煙が昇りたち、呪符紙の絵に向かって流れて行った。
「煙?」
「のようなもの、と言うのが正解かな」
 後に教えられたことだが、それは父の魂が流れ出たものであった。絵獣を創るというのは、自身の描いた絵に真に魂を吹き込み、命を分け与える行為だったのである。
「……あの、リリィさんもその、魂を吹き込んでるんですか?」
 ミーナがおずおずと尋ねた。頷くリリィにさらに疑問をぶつける。
「でも、煙なんて見えませんでしたよ?」
「だから見せてあげたの」
 その言葉に、ミーナが目をぱちくり。リリィは苦笑しつつ、肩をすくめた。
「絵術士の能力がないと見えないんだって」
 絵獣に命を吹き込む技は、修行によって会得するものではなかった。能力さえ備えていれば、絵獣が誕生する瞬間を目にするだけでよいのである。理屈ではなく、感覚として覚えてしまうのだから。そこには何の知識も要らない。故に危険なのであった。
 父の技を目にしたリリィは、さっそく真似をしてみた。お気に入りの絵をスケッチブックから切り離し、地面に広げて念を込める。
 見よう見まねと言うにはずいぶんと違いがあったものだが、リリィにはそれでも大丈夫だという確信があった。自分の中にあるものを、とにかくいっぱい流し込めばいい。心の声の赴くままに……。
 こうして生まれたのが、ラッセルが手にする紙に描かれた“翼ある大きな猫”、カルロであった。それはリリィが生まれて初めて創った記念すべき絵獣である。
 だが――。
「実を言うと、カルロが生まれた瞬間を知らないの、私」
「え?」
「自分で創ったのに?」
「術を使った途端にばったり倒れちゃってね」
 あの日の記憶は絵が光ったのを目にしたところで途切れていた。やった、と思った瞬間に、視界が揺れて何も見えなくなった。気付けばベッドに寝かされており、両目に涙を浮かべてぎゅっと抱きしめた母を、不思議そうに見つめたことを覚えている。
 リリィ本人は知る由もなかったが、彼女が気を失ってから覚醒するまでの間に、太陽は三回も空を回っていたのだった。
「カルロとウィドやスレイプを見比べて、何か気付かない?」
 言われて三人は、揃って顔を付き合わせるように絵をのぞき込んだ。
「こっちの方がふかふかしてんな」
 とリュート。
「動物……だよね?」
「うん。ぬいぐるみみたいだけど」
 ミーナとラッセルが続け、リリィに視線を戻す。頷くリリィ。
「小さい頃の私は、どちらかと言えば父の絵より母の絵の方が好きだった。可愛いのもあるけど、身近な動物に似て親しみが持てたからね。だから私は、母の絵を真似して絵を描いていたの」
 だがそれは、絵術士にとって最大のタブーであった。
 自らの魂を吹き込むというのは、精神を削ることに他ならない。想いが強ければ強いほど、消耗の度合いは輪をかけて高まる。命さえ失いかねないほどに。
 故に、絵術士は簡略化した線で絵獣を描く。実在の生き物に似せることはしない。顔を作らず、必要以上に入れ込むことのできないデザインを目指す。致命的な損耗を避けるため、あえて抽象的な形で創るのだ。
「父が創造の技を見せなかったのは、ああなることを予期していたからなんだと思う」
 これも後で聞いた話だが、リリィの父は彼女を授かる以前に、知り合いの絵術士の娘が同じようにして気を失い、そのまま目覚めなかった場に居合わせたことがあったのである。だから余計に神経質になった。仮にリリィの意識が戻らなかったら、父は首を括っていたことだろう。
 リリィが目覚めたことを知った父は、部屋に飛び込んでくるなり彼女を抱き上げた。頬をすり寄せ、人目もはばからずに泣いた。父の涙を見たのは後にも先にもあの一回きりである。
 翌日から、リリィは父に師従する事となった。知識はもちろんのこと、絵術士としてあるべき画風を身につけるために。それでもカルロを取り上げられることはなかった。
 なぜなら――。
「創った絵獣は責任を持って育てよ。これが絵術士の掟だからね。でも、初めてこの言葉を聞いたときには嬉しかった。だって、カルロとずっと一緒にいられるってことなんだから」
 一人っ子のリリィにとって、カルロは弟のようなものだった。その日一日の修行が終わるや否や、辺りが暗くなるまで転げあって遊んだものだ。父は苦い顔をしていたが、それでも咎めようとしなかったのは、我が子の心情を知っていたからだろう。
 一人っ子と言っても、遊び友達に恵まれなかったわけではない。お隣の鍛冶屋の息子であるサクとは、赤ん坊の頃からの付き合いだ。だから、取り立てて寂しいと言うことはなかった。
 リリィが弟妹を欲しいと思ったのは、寂しさからではなく、憧れからだ。
 サクにはサヤという年の離れた妹がいる。いつもお兄ちゃんの後をついて回る、かわいい女の子だった。お兄ちゃんと同じことができないと言っては泣き、お兄ちゃんに頭をなでられればすぐ機嫌を直す。家路はいつも手をつないでスキップだ。そして、照れくさそうにはにかみながらも、どこか誇らしげなサクの表情――。
 そんな二人の様子にリリィは憧れを抱いた。「自分も弟か妹が欲しい!」と駄々をこねたのは、一度や二度ではない。知らなかったこととはいえ、今思えば随分と酷なことをしたものである。
 リリィの母は少し体が弱かった。その上、難産しやすい体質なのだという。事実、リリィを生んだときにも相当な苦労があったそうだ。故に両親はリリィの次の子供を諦めた。
「そうした事情があったから、母もカルロのことをとっても可愛がってくれてね。あの日から私たち、本当の姉弟みたいに育ってきたの」
 以来、リリィの傍らには常にカルロの姿があった。絵に戻すことなど考えもしなかったのは言うまでもない。そして二人は、師匠の父さえ目を見張るほどの固い絆で結ばれた。瞳を見つめるだけで心の声を聞き取れるほどに。
「それなのに盗られちまったのか?」
「ちょ、ちょっと。リュート」
 ストレートすぎる合いの手に慌てるミーナだったが、
「いいのよ」
 リリィは笑ってそれを流した。ふがいないのは本当のことだし、それにいったん話すと決めた以上、変に気を使われるよりはその方が楽だ。
 なおも不安げな表情のミーナに改めて微笑んでみせると、リリィは懐から黒の大剣スレイプの絵札を取り出して続ける。
「絵獣は絵術士の分身だから、召還術のタロットと違って、本来は他人に扱えないものなの」
 創った絵獣は責任を持って育てよ。絵術士のその掟は、創造者と魂を共有し、創造者以外の命を決して受け付けないという、絵獣の本性の裏返しでもある。
 だが……。
「それが、あの男は違った」
 未だ信じられない思いに瞳を陰らせながら、絵札の向こうに浮き上がる記憶を見つめるリリィ。端整な顔に上辺だけの笑みを載せた男の、悪夢のような所行が甦る。
「“奇蹟の人形遣い”ヴォルフドーレン。ものを生き物の如く操る術に長けた、恐るべき人物よ」

 リリィがヴォルフドーレンと知り合ったのは、一年ほど前のことだ。ちょうど夏祭りの時期にルーエンを訪れた彼の、術を披露する場に居合わせたのがきっかけである。
 出店で売っていた何の変哲もない人形に、彼は剣舞を演じさせていた。といっても、糸などの道具を使って操るわけではない。術をかけられた人形が自ら舞うのだ。それだけでも見事だが、リリィがなにより目を見張ったのは、他ならぬ人形の動きだった。
 全くぎくしゃくしたところのない舞は、まるで小人が踊っているかのようだった。目に生気がないのを見て初めてそれが人形と判る、といった具合。絵獣という絵から生まれた命を統べる者の目から見ても、鮮やか過ぎるほどの技であった。
 父の元で一通り絵術士としてのわざを磨いたリリィだったが、この頃はある悩みを抱えていた。父の教えに従って創り出す絵獣が、カルロほど自然に行動しなかったからである。確かに命じられたことには従う。だがカルロとは違い、リリィの意を汲んで自ら動くことはしなかった。父に言わせれば「それが絵獣と言うもの」なのだが、既にカルロという相棒を得ていた身にすれば、あまりに寂しすぎる話である。

 ――みんなカルロみたいになれば良いのに。

 今から思えば、その心の揺れを突かれたのだろう。技の極意を訊きにヴォルフドーレンに声をかけたリリィは、いつしか彼の多彩な技に魅了されていった。そして絵術士としてあるまじきことをしてしまった。
「絵術士の掟の一つに、同様の技を持つ者に元紙を見せてはならないというのがあるの。でも、あのときの私は、その理由を本当には理解していなかった」
 動物さながらのカルロを誉めちぎるヴォルフドーレンに、つい心を許してしまったのだろう。リリィはふとしたきっかけで、幼少の頃に描いたこの絵を彼に見せてしまった。それがすべての始まりだった。
 いつの間に気を失っていたリリィが目覚めたとき、眼前に映ったのは全身血まみれで倒れているサクの姿。足元の彼を一瞥して冷徹に告げたヴォルフドーレンの、心の底から凍り付く言葉が耳を突いて離れない。
「君を殺るとこの子も消えてしまうからね。だから生かしておいてあげる」
 彼の冷笑に唱和してカルロが吠える。同じ魂で繋がっているはずの翼ある大きな猫。だが、その瞳はリリィの知るカルロのものではなかった。心の声はみじんも聞き取れず、ただ獣の如く猛るばかり。
 カルロはリリィの呼びかけに、決して応えようとはしなかった。
「カルロの絵を手に、ヴォルフドーレンは私の前から姿を消した。私はあの男からカルロを取り戻すために、旅に出たの」
 風の便りを頼りにヴォルフドーレンの姿を追い求める日々。だが、隠密行動の心得もあるらしい彼は、容易に尻尾を掴ませなかった。いつしか路銀は尽き、リリィはトロンプの町の道端で似顔絵を描いて小金を稼ぐ必要に迫られたのである。
「あら、素敵。見て」
 出来上がった似顔絵を受け取る老婦人は、一目見るなり嬉しそうに目を細めた。傍らから覗き込む彼女の夫もまた、感嘆の声を上げる。
「こりゃあ、帰ったら額縁に入れんとな」
「ありがとうございます」
 思ってもみないお褒めの言葉に、リリィは自分でも顔がほころぶのが判った。
「もう少しお時間があれば、色も付けられたんですけど」
 照れくさく思いつつ、そう続ける。乗り合い馬車の時間までに、とのオーダーだったので、ペン一本で描くより仕方なかったのだ。線の数もさして多くはなく、ささっと描いた感は否めない。
 だが、それでもこの品の良さそうな老夫婦のお気には召したらしい。
「いやいや、なかなかのものだ。素朴な味わいと言うのかな。旅の良い記念ができたよ」
「お代はこのくらいで良いかしら?」
 そう言って婦人が出した金額は、リリィの想定より二割は高かった。
「こんなに……」
「あなたほどの腕前なら、都でもきっと通用するわ。一度、訪れてみなさいな。なんならうちの宿、安くしておくわよ?」
「ありがとうございます。機会があれば是非」
 先ほど聞いた宿の名を改めて脳に刻みながら、心からの笑顔で応えるリリィ。老夫婦もまた、にこやかに手を振って馬車乗り場へと歩いて行く。
 立ち上がってそれを見送ったリリィは、老夫婦の姿が見えなくなったところで、小さくガッツポーズを作った。路銀補充のためにやむなく始めた似顔絵屋だったが、なんと幸先の良いスタートだろう。この調子なら今日は野宿せずとも済みそうだ。
 気持ちよく空き樽に腰を下ろす。と、リリィはそのとき初めて、看板代わりに置いた猫の絵をしげしげと見つめている少年の姿に気が付いた。
 歳の頃はサヤと同じくらい。薄茶色の髪をわずかに風になびかせながら、屈み込んで顔を寄せている。リリィや先ほどの老夫婦とは異なり、髪の間から覗く耳の先端が三角に尖っている。尖耳人トカリだ。この辺りでは珍しいはずだが、旅人とも思えない軽快な格好からすると、どうやら地元の子のようである。
「ねえ、君。それ、気に入ったの?」
 真剣に眺めるあまり口を半開きにした様子がおかしくて、悪いと思いながらも笑い混じりに声をかけるリリィ。ぱっと振り向いて慌てたような素振りを見せるところがまたかわいい。
 すぐに描けるものだし欲しいならあげるよ、と続けようとしたその時、少年は意を決したように尋ねてきた。
「あの、これ、お姉さんの描いた絵だよね?」
「そうよ」
 リリィが頷いてみせると、彼は懐から紙切れを取り出した。怪訝顔のリリィに歩み寄り、両手で持ってそれを広げてみせる。
「これもお姉さんの絵?」
「え……?」
 古びた紙いっぱいに描かれたものを目にしたリリィは、一瞬我が目を疑った。なぜならば、それこそが彼女が捜し求めてきたもの――カルロの元絵――だったからだ。
 少年が言うには、町外れの遺跡近くで拾ったとのことだった。矢も盾もたまらずリリィが赴いたのは言うまでもない。
 そこまで語ったところで、リリィはラッセルを見つめた。到底あり得ない話なのだが、彼をどこか他の場所で見かけた気がしてならないのである。リリィの視線に気づいたラッセルが、不思議そうに目をぱちくり。
「なあ、その遺跡って、どんななんだ?」
 そんな微妙な雰囲気を察したのかどうかは知らないが、絶妙なタイミングでリュートが尋ねた。やっぱり気のせいだよね。そう思い直したリリィは、若草色の髪の上で揺れる銀の羽を見ながら続ける。
「そうね……。一言で言えば、作りものの塊、と言ったところかしら」
「ゴレムの洞窟……」
 思わず、といった感じでラッセルが漏らした。獣族の表情を読みとるのは丸耳人マールにとって難しいことこの上ないのだが、それでも驚いているのが如実に判る顔だ。
「あの、リリィさん。そこってここから遠いんですか?」
サソリもどきあいつに追われて森に逃げ込む直前に居たところだから、そんなに遠くはないと思うけど……」
 おずおずと尋ねるミーナに答える。すると何を思ったのか、ミーナはぽんと手を打つと、立ち上がって連れの少年達に言った。
「ねえ、あたし達も一緒に行きましょうよ!」
「え?」
「というより、あたし達、リリィさんを手伝うべきだと思うの」
 戸惑うリリィをよそに続けるミーナ。その言葉を聞くや、リュートとラッセルもまた、跳ねるようにして立ち上がる。二人は互いに顔を見合わせると、
「そーゆーことなら、いっちょ行くか!」
「ミーナの勘は外れないもんね」
 揃ってにっと笑うのだった。
「ちょ、ちょっと、危ないのよ」
「へーきさ」
「自分の身くらい、自分で守れるし」
「それに、一人より四人の方が心強いですよ?」
 自信たっぷりな反応に、リリィは言葉に詰まった。確かに助けてもらったときの戦いっぷりからして、彼らの身を案じる必要はないのかもしれない。却って自分の方が足手まといになりかねないだろう。まして一人ともなれば……。
「おめーもそう思うだろ?」
 迷うリリィの心を見透かしたように、傍らに浮かぶウィドに向かってリュートが問いかける。コクコクと上下に揺れて同意を示す絵獣の姿に、リリィは折れた。
 魂を共有する絵獣はまさしく自身の分身だ。複雑な心を持たない分、素直な反応を示すことが多い。目を閉じるとウィドの心が伝わってくる。生みの親を心配する思いに入り交じる不安。守りたい気持ちは強いけれど、三人と別れることの心細さが小さな体を押し包む。
 彼らの声は己の本音。決して否定する事なかれ――。
「……分かったわ」
 傍らで様子を伺うウィドに応えて呟いたリリィは、
「いや、分かった、てのは変ね」
 すぐさま苦笑して頭をかく。そうして表情を改めると、三人を向いて頭を下げた。
「ありがとう。そしてお願い。カルロを取り戻すのを手伝って」