星のかけらを集めてみれば - ヒトのかたち、想いのかけら -

作:澄川 櫂

3.夢魔払い

 足もとから湧き上がる闇が辺りを包み込んで行く。霧のようにふわふわと、それでいてどこまでも重くのしかかる黒い闇。瞬く間に視界を覆い隠し、街道の喧噪をも遠くへと追いやってゆく。
 そして彼女は一人残された。かすかに耳に届いてくるのは、断続的に響く耳障りな鈍い音だけ。
(――また、あの夢だ)
 虚ろな意識の中で、リリィはそれと気付いた。何度も大きく頭を振る。だが、覚めない。リリィの足は自らの意志とは無関係に、音の聞こえる方角へ向かって歩を進める。
 止まろうと必死に踏ん張るが、力を入れれば入れるほど、却って歩く速度は早まるのだった。気が付けばいつもと同じように駆けている。遠くに見える灰色の舞台を目指して。
(やだ……)
 目を閉じようとする試みもまた、叶わない。翼を広げる獣の影が嫌でも目に入る。
 しなやかな四肢の先に光る鋭い爪。切っ先の描く光跡。揺らぐ人影から赤いものが流れ出す。色彩の消えた世界にあって、それだけが実に鮮やかな光彩を放った。
 赤いどろりとした液体が、やがてリリィのつま先を濡らし始める。生暖かい感触に刺激された視覚が、徐々に鮮明な像を結んで行き……。
(だから、見たくないんだってば!)
 リリィが声にならない叫びを上げたその時、視界が急に真っ白に染まった。温かな心安らぐ光が全身を包み込んでいる。いつにない展開に声もなく戸惑うリリィ。その耳元で女性の声がそっと囁いた。

 ――大丈夫、あなたが悪いんじゃないわ。

(え……?)
 そっと肩に置かれた手の感覚に、ゆっくりと振り仰ぐ。顔立ちの定かでない女性は、それでもはっきりと判る微笑を口元に浮かべていた――。

 気が付くとリリィは空を眺めていた。澄んだ青空にぽっかりと浮かぶ白い雲。それは頬を撫でる穏やかな風と共に、ゆっくりと視界を右へと流れてゆく。ほんのり冷たさを湛えた秋の風は、手の甲に感じる土や草の匂いと相まって、揺るぎない現実感を全身に染み渡らせる。
 大きく息を吸い込むと、リリィは勢い良く飛び起きた。その拍子に額から何かが剥がれ落ちる。何だろうと思って拾い上げてみると、ヒトの形に切り抜いた紙切れだった。
 薄っぺらな紙切れは、ちょうど足もとから墨に浸したような案配だった。胸元までは真っ黒で、そこから先がグレーのグラデーションになっている。それでも頭のてっぺんまでは色が回らず、そこだけが白く残っていた。
「おはようございまーす」
 手にした紙切れをしげしげと眺めるリリィに、不意に少女の声が投げかけられた。振り向くと、一本松の根元に腰を下ろしたミーナがこちらを向いて微笑んでいる。朝日の下で目にする紅藤色の髪は、いっそう柔らかく感じられた。
 季節は折しも初秋。色づき始めた山を背に佇む可憐な少女は、額を付けて飾れるほど絵になっている。
 そんなことを思いながらしばし見とれるリリィだったが、笑顔のまま小首を傾げるミーナに気付いて、すぐに我に返った。
「あ、おはよう」
「ちょっと待ってて下さいね。これ仕上げたら、お茶、入れますから」
 ミーナはそう言って手元に視線を戻した。なにやら縫い物をしていたらしい。ちくちくと針を動かしながら続ける。
「裏手を降りると湧き水がありますから、そこで顔、洗えますよ」
 顔を洗ってさっぱりしたリリィは、案外と急な坂を上ったところで、男の子コンビの姿が見えないことにようやく気付いた。丘の上から見渡す限り、縫い物を続けるミーナの他に人影は見当たらない。
「あの二人は?」
「ラッセルはリリィさんの鞄を探しに。リュートは朝ご飯を釣りに行ってます」
 手元から視線を逸らさずに答えるミーナ。そのまましばらく針を動かしていたが、ふと気付いたように手を止めると、振り向いて「お魚、大丈夫ですよね?」と尋ねる。
「え? ええ」
「よかった」
 ほっとしたように小さく笑うと、ミーナは再び手元に視線を戻す。ちょうど仕上げるところだったようで、リリィが覗き込む間もなく針を置いた。
「でーきた」
 言って広げたのはリュートの上っ張りだった。昨日、怪物に切り裂かれたのを繕っていたのだろう。そう当たりをつけながらよくよく見ると、あちこちに縫い直したらしい跡があった。だいぶくたびれた感のある上着には、当て布をして穴を塞いだ箇所すら一つ二つと言わずに見受けられる。
「本当は古着屋さんで新しいのを探したいんですけどね。そろそろ冬物の季節だし。でもリュート、しょっちゅう破くから替え時が難しくって」
 リリィの視線から言わんとすることを感じ取ったのか、ミーナは繕い終えた上着を畳みながら苦笑混じりに言った。
 しっかりしてるわね。リリィは思った。旅人にとって服は高く付くものである。いつダメになるか判らないのだから、極端に金はかけられない。とはいえ、安物過ぎても旅の負担に耐えられないので、加減が難しいのである。
 まだ成長期にある彼らにとっては、より切実な問題だろう。特別何もしなくても体に合わなくなるのだから。着古せるだけ着古してから古着屋で次の服を買うというのは、現実的で賢いやり方だ。今のミーナと同じ歳だった頃の自分は、果たしてそこまで頭が回っただろうか?
「それより、よく眠れました?」
 そんなリリィの思いなど素知らぬ様子で、ミーナが尋ねた。一瞬戸惑うリリィだったが、すぐに気付いて懐にしまっておいた紙の人形を取り出す。
「……これ、ひょっとして?」
「はい、夢魔払いのおまじないです。迷惑だったかもしれませんけど、リリィさんが苦しそうだったんで、つい……」
 申し訳なさそうに顔を伏せるミーナに、リリィは心の底から感謝した。
「そんなこと無いわ。ありがとう。おかげでぐっすり眠れたわ」
「良かった」
 ほっとした表情を浮かべるミーナ。
「実は、ちゃんとやるのはこれが初めてだったんです。小さい頃、お婆ちゃんに教わったんですけど、あんまり自信がなくって……」
「大した腕前よ。不眠症の知り合いに紹介したいくらい」
「褒めすぎですよぉ」
 謙遜して照れるミーナの仕草は、やはり年相応に可愛らしい。
「あ、それ、もらえますか?」
「これ?」
 ひとしきり照れて真顔に戻ったミーナは、リリィが手にする人形を指差して言った。特に拒否する理由もないので、リリィは素直にそれを渡す。受け取ったミーナは何やら呪文のような言葉を口にすると、人形を載せた掌に炎を呼び出した。眩い炎が黒ずんだ人形を瞬く間に消し去って行く。
「こうしないとまた顔を出しちゃいますから。吸い取った魔を燃やして初めて、悪夢は去ってくれます」
「そうなんだ」
「お婆ちゃんの受け売りですけどね」
 再び謙遜するミーナだったが、リリィは笑わなかった。当人の前で人形を燃やすというのは、実に効果的だと悟ったからだ。信じるにしろしないにしろ、黒く染まった人形が崩れゆく様を目にすれば、悪夢は去ったのだと本気で思える。
 病は気から、とも言う。心の持ちようを変えるという意味でも効き目の高い、ミーナの夢魔払いだった。
「あなた達には本当に驚かされるわねー」
 リリィは心の底から言った。
「魔法を使える狐人スマリなんて初めて聞いたし、それに“幸運の羽根”と直に出会える機会だなんて、滅多にないもの。もっとも、唄には銀色の羽根があるとは無かったけれど」
「リリィさんは南の方なんですね」
「え?」
「だって、北の人たち、リュートの仲間のこと“悪魔の使い”って呼びますもん。幸運の印に思うのは南の人たちだけですよ?」
 言うと、ミーナは嬉しそうに笑った。どこかほっとした感じがあるのは決して気のせいではないだろう。リリィは無意識に渋い顔になるのだった。
「北には丸耳人マール以外のヒトがほとんど暮らしていないせいか、妙に閉鎖的なところがあるのよね」
 北からの旅人にはリリィも何度か出会ったことがあるが、獣族や亜人の姿を目にするや、露骨な嫌悪感を示す人間が多かった。そして、自然環境が厳しいにも関わらず、北方の丸耳人が南に移り住むことは希だという。生活空間の隔たりが生んだ感情的な壁は、それだけ高いと言うことか。
 吐息と共に嫌な記憶を追いやると、リリィは努めて明るくミーナに尋ねるのだった。
「あなたも南の生まれ?」
 ミーナはにこにこしたまま、その問いには応えなかった。ベージュのニット帽の下で、穏やかな緋色の瞳を僅かに細めたばかりである。ほんのり涼しい初秋の風が、彼女の紅藤色の髪を優しく梳いて行く。
 と、そのミーナが唐突に立ち上がった。畳んだ上っ張りを抱えながら、身を乗り出すようにつま先立ちする。つられてリリィが顔を向けると、川近くの木々の間に特徴ある銀の飾り羽根がちらちらと輝いていた。ややあって、右肩に釣り竿を担ぎ、左手に魚籠を提げたリュートが姿を見せる。ラッセルも一緒だ。
「リュート、釣れたー?」
「まっかせろー」
 高々と釣り竿をかざして応えるリュート。
「ちゃんと人数分あんぞ」
「さっすがー。ラッセルも約束守って偉いっ」
「わんわん」
 リリィのリュックを背負ったラッセルが、ほくほく顔でおどけて見せる。その姿にリリィはなぜだか違和感を覚えた。
「はい、リュート。縫い終わったよ」
「あんがと」
「おー。りっぱじゃん」
 魚籠を覗き込んだミーナが感嘆する。が、いそいそと上着を羽織るリュートは、
「それよかミーナ。ラッセルのやつ、すげーんだぜ?」
 と言って、釣果を誇るでもなく傍らに視線を移した。それに促されて顔を向けると、リュックを降ろしたラッセルが、待ってましたとばかりに手にした風呂敷包み、いや、バンダナを解きはじめる。
 さっき感じた違和感の正体はこれだったのだ。リリィはようやくそのことに気付いた。
 ほかよりも僅かにボリュームのある頭の毛、ヒトで言うところの髪の毛に相当する部分がむき出しのラッセルは、バンダナを巻いているときに比べてより自分達に近い姿をしていると思えた。もちろん、毛だらけの狐顔は丸耳人マールと似ても似つかないけれど、そこに前髪があるだけでも随分と表情が豊かに感じられる。
 どこかで見たことがあるような気がするのは、きっと気のせいだろうが……。
「じゃーん」
 そんなリリィの胸中など知らず、ラッセルは効果音を口にしながら、いささか勿体ぶるように包みの中身を披露した。
 ころんころんと転げ出る赤茶色の物体に、ミーナが目を丸くする。
「ポワレダケじゃない。どうしたの?」
「リリィさんのリュックの近くに、わんさか生えてるとこがあったんだ。いー匂いしてたからすーぐ判った」
 えっへんと鼻を突き上げるラッセル。
「ポワレダケ?」
「秋の限られた時期にだけ、限られたところに生える幻の茸です。香りがよくて、お魚やお肉と一緒に蒸し焼きにすると、とっても美味しいんですよー」
「それって、とんでもないご馳走なんじゃ……」
「はい!」
 ミーナははち切れんばかりの笑顔で頷いた。リュートとラッセルもまた、見るからにワクワクした面持ちで目を輝かせている。
「そう言うことならこいつの出番ね」
 ごそごそと荷物をあさるミーナは、使い込んだ小型のフライパンを取り出すと、
「採れたてのうちに調理しちゃいましょ。ポワレダケは香りが肝心なんだから」
 腰に手を当て、力を込める。
「お魚の仕込みは任せたわ、リュート」
「おう!」
「ラッセルは器を用意してね」
「りょーかーい」
 そうして三人は各々の作業に取りかかった。
 赤茶色の茸をスライスし、バターを溶かしたフライパンでさっと炒めるミーナ。肉厚の魚を鮮やかな手つきで三枚におろすリュート。どこからか大きな葉っぱを採ってきたラッセルも、慣れた手つきでその両端を結わえて即席の深皿を作る。
 炒めたポワレダケをいったん、まな板代わりの葉っぱに移すと、ミーナはフライパンに少しバターを足してから、切り身を二枚載せた。両面に軽く焼き色を付けたところで、炒めた茸の四分の一を加え、これまたラッセルの採ってきた葉っぱで蓋をする。
 そのまま待つことしばし――。
 蓋を開けると、湯気と共に得も言われぬ香りが広がった。鼻腔より侵入した匂いは口を湿らせ、腹の虫を歌わせる。食欲をそそるとはまさにこのことだ。
 ラッセルの作った器の一つに盛りつけると、ミーナはそれをリリィに向かって差し出した。
「え? いいの?」
「リリィさんは主賓ですから」
 戸惑うリリィに、ミーナはにこっと笑って言った。傍らでラッセルがこくこくと頷く。
「あ、ちょい待ち」
 その横から、リュートが小瓶を差しだした。軽く傾け、うっすら紫を帯びた液体をちょちょっと垂らす。ジュッという音を立てて、嗅覚にさらに訴えかける香りが湧き上がった。
「ソイ油、まだあったんだ」
「こないだ寄った市で見つけた。父ちゃんの故郷くにで作った本場もんだぜ?」
「リュート一押しのソースなんだよ」
 ラッセルが補足する。
「では、お言葉に甘えて」
 三人から一様に向けられる、期待と不安の入り混じったような視線。少々辟易しながら口にしたリリィは、途端にそんなことなどきれいさっぱり忘れて、目を見開く。
「……美味しい」
 それ以外の言葉は出なかった。あとは夢中で箸を進める。偶然出会った秋の一品に、リリィは素直に感動していた。
 そんな様子を見ていた三人は、互いの顔を見合わせるとくすりと笑う。
「ミーナ、おいら達の分も早くぅ」
「わんわんわん!」
 器を手に尻尾を振る男の子達。
「そんなに急かさなくても、ちゃんと作ってあげるわよ」
 半分苦笑しながらも、ミーナの声は得意げに弾んでいた。