星のかけらを集めてみれば - お月さまとしっぽ -

作:澄川 櫂

5.匂いと臭い

「にーじゅしち、にーじゅはち、にーじゅく、さんじゅ」

 ——ごっくん。

 ようやく三十回を噛み終わると、ラッセルもまた、口の中のバケバケ草を一気に呑み込んだ。苦い苦い固まりが、ごろごろとお腹の中を転がっていくのが判る。
「ふぇ〜、ホントにすっごく苦いんだねぇ」
 べぇっと舌を出し、疲れた表情で感想を漏らす。が、すぐに元気を取り戻すと、飛び跳ねるように立ち上がる。
「へへ、見て見て」
 両腕を大きく広げ、風の力を借りてくるんと宙で一回転。すると——。
 とんと地面に降り立ったのは、尖耳人トカリの子とは似ても似つかない、狐人スマリの男の子だ。
 バンダナの隙間を押し広げて現れた、三角形の大きな耳。お尻に揺れる、ふさふさした尻尾。全身を覆う毛の色こそ、チターとは異なる薄茶色——ラッセルの髪と同じ——だが、顔の形といい、どこから見ても立派なスマリである。
 白い毛のたっぷり生えた胸元が苦しくないよう、着ている服までゆったりとしたものに変わっているのが面白い。唯一、頭に巻いた青いバンダナだけが、変わらず薄茶色の毛並みに際だっていた。
「あははっ、すごーい」
 すっかり変わった自分の姿に、ラッセルは大いにはしゃいだ。両手で耳に触れては笑い、尻尾を揺らして跳ね回る。
「ねえねえ、面白いよ。ズボンとパンツに尻尾の穴が空いてるの。ふっしぎー」
 尻尾の付け根を探りながら、それと気付いて楽しげに振り向く。ところが、チターはこちらを向いたまま、呆然と立ち尽くしているのだった。
「どうしたの?」
「……お前、ラッセルだよな?」
 おずおずと尋ねるチターに、ラッセルが目を瞬かせる。
「ぼくが変わるとこ、チターも見てたでしょ」
「そうなんだけど、その……」
 口ごもる彼の様子に、ラッセルは首を傾げた。どうしたんだろう? ぼくもチターと同じように変わっただけなのに。
 もっとも、そんな疑問などすぐに忘れていた。目を輝かせながら、もう一回くるんと宙返りしてみる。今度は何に変身しようかな?
 ところが、ラッセルの思いとは裏腹に、彼の姿は、元のトカリの姿に戻るのだった。
「——あれ?」
 戸惑ったように、自分の体を見下ろすラッセル。ヘンだな。気を取り直して、再度、空中で一回転。スマリの姿になる。立て続けに、高さを付けて宙返り。元に戻る。さらに大きくとんぼ返り。再びスマリへ。
「……。何やってんだ?」
 くるくると変身を繰り返す様子に、チターがさすがに呆れた表情を作る。スマリの姿で回るのを止めたラッセルは、しょんぼり耳を伏せた。
「……ぼく、この姿にしかなれないみたい」
「そ、そうなのか」
 残念そうに俯くラッセルだったが、やがて、ぽりぽりと首の後ろをかくと、思い直したように顔を上げる。
「でも、いいや。チターと同じ姿にはなれるんだし」
 と言って、ニカッと笑ってみせた。それから、ふと気付いたように、くんくんと辺りの匂いを嗅ぐ。
「ねえ、チター。この、鼻の奥がスーってするのが、バケバケ草?」
「ああ……て、判んのか!?」
「うん。いい匂いだね」
 うーんと伸びをしながら、気持ちよさそうに目を細める。が、ほどなく別の臭いを嗅ぎつけ、ラッセルは顔をしかめるのだった。
「——なにこれ。意地悪そうで、すっごく嫌な感じ……」
「ん?」
 その言葉に、チターも鼻をくんとやった。
「ああ、こりゃ、さっきのオオカミだな。俺たちのこと食おうと、まだその辺をうろうろしてんだ」
「え……?」
「飛びかかるには離れ過ぎてっから、あんま気にしなくても平気だけど、気味が悪いな」
 不快そうに森の一角へと目を遣る。チターの向いた先に目を向けると、ラッセルの鼻に伝わる“嫌な臭い”が、よりいっそう強く感じられる。
 どうやらあの辺に、先ほど追い払ったはずのオオカミが隠れているようだ。
「えいっ!」
 ラッセルはやおら、腕を払った。掌から放たれたびりびりする光の玉が、こんもりした藪に当たって弾ける。
「今度はホントに当てちゃうぞ」
 両手を腰に当てて精一杯凄むと、がさがさと音を立てながら慌てて逃げる灰色の獣が、低木の合間にちらりと見えた。
「ふんだっ」
「お前、凄いのな」
 オオカミをまたも追い払ったラッセルの勇姿に、感嘆の眼差しを向けるチターだったが、
「そんなことないよぉ」
 当人は照れくさそうな笑みを浮かべると、胸元に手をやる。
「……ばくばくしてるもん」
 大きく深呼吸をして、ようやく静める。長く伸びた彼の影さながら、緊張がふーっと抜けていく。
 ふと、梢の合間から差し込む黄金色の光に気付いた。振り向くと、大きな西日が稜線に半身を浸すところだった。
「お日様がだいぶ傾いてきたね」
 まぶしそうに目を細めるラッセルは、傍らで同じように夕日を眺めるチターが、左足を僅かに浮かしているのに気付いた。
「ねえ、チター。元に戻れる?」
「え?」
「足、まだ痛いんでしょ? 家まで送ってあげるよ」
 不意に問われて戸惑うチターに、ラッセルは言った。彼にしてみれば何気なく口にした言葉だったが、狐顔で笑う様子を見つめるチターは、何事か考え込む風である。
 が、それも僅かな間のこと。痛みを堪えつつ、くるりと宙で回る彼は、小さな子狐の姿に戻ることで、ラッセルの申し出に応えるのだった。
「道案内はよろしくね」
 小さくなったチターを抱えてかばんに入れるや否や、風を纏って飛び上がるラッセル。とんと軽やかに枝を蹴り、キツネの尻尾を揺らしながら宙を舞う。
 その様子を、藪の底からじっと見つめる一対の目があった。やがて、そろりそろりと灰色の体を引きずるようにして顔を出すと、去っていった獲物のいた辺りを口惜しそうに眺めやる。
 と、その赤い瞳が茎の付け根を青く輝かせる黄色の葉を捉えた。大きさは、ちょうど彼の顔と同じくらい。
 先ほど目にした光景を思い出したオオカミは、同じようにちぎり取って、中心に自らの足形を押しつける。乱雑に折り畳んだそれを口にするが……。
 一瞬の間を置いて、ぺぺっと吐き捨てるオオカミ。目を剥いてひとしきり悪態を吐くと、いかにも腹立たしいと言った態で身を翻す。
 黄昏色に身を染めて、灰色の獣は森の奥へと消えた。後にはただ、頭を垂れる黄色のバケバケ草が、静かに佇むばかり。
 ほんのりと青い輝きを放つそれは、徐々に訪れる暗闇になおも淡い光を灯していたが、陽光に替わって銀のシャワーが降り注ぎ始めるや、たちどころに色褪せ始めた。黄色の葉はくすんで星のかたちを失い、へたり込むようにして萎れて行く。
 夜の生き物たちが目を覚ます頃には、バケバケ草は跡形もなく消えていた。