星のかけらを集めてみれば - お月さまとしっぽ -

作:澄川 櫂

3.オオカミさん

〈ふふん。こりゃまた、上等の獲物だな〉
 赤い瞳でじっと見つめるオオカミは、そう言うと、僅かに視線をあげた。藪に腰掛ける格好のラッセルを、頭のてっぺんから足もとまでしげしげと眺める。そうして、すうっと目を細めると、
〈見るからに柔らかそうな肉。三日ぶりに、豪華なディナーになりそうだぜ〉
 と続けて舌なめずり。口元からこぼれるよだれを、長い舌がさっと拭き取って行く。
 ところが、ラッセルは相変わらずきょとんとした顔のまま、小首を傾げるのだった。
(このオオカミさん、何言ってるのかな? お肉なんてどこにあるのさ)
 怖い顔だけど、ヘンなオオカミ。などと思いながら、立ち上がろうとかばんに手を掛ける。と、それがぱんぱんに膨らんでいるのに気付いて、ビックリした様子で視線を落とす。
 かばんの奥までしっかりと潜り込んで、丸くなるチター。先程までに増して、がくがくと全身で震えているのが、帆布の生地越しにも明らかに判る。
「チター?」
 かばんを開けて覗き込むラッセルの耳に、チターのか細い声が辛うじて聞こえた。
〈……やっぱり、腹空かせてるんだ。俺たち、あいつに食われちまう。俺、あいつに一呑みにされちゃうんだ〉
「え……?」
 食べられちゃう。その言葉を聞いて目を丸くするラッセルは、先日、初めてお父さんに連れて行ってもらった、狩りのことを思い出した。
 ラッセルの放った矢は、見事、狙った野ウサギに当たったのだが、彼の力ではまだ、仕留めるには至らなかった。すかさずそれを仕留めたお父さんは、しょげるラッセルの頭に手を置いて、狙いの確かなことをひとしきり褒めると、
「大丈夫。大きくなれば、お前にも立派な獲物が仕留められるようになるさ」
 と言ってくれた。
 その日の晩ご飯は、獲ったばかりの新鮮なウサギ肉を煮込んだシチュー。柔らかなお肉を口いっぱいに頬張りながら、ぼくも早く大きくなって一人で仕留めてみせるんだ、なんてことを思ったものだ。
 獲物……。そう言えば、オオカミはシカやウサギなどの動物を獲物にすると、図鑑に書いてあった。もちろん、食べるために。
 じゃあ、このオオカミさんの言う、獲物や肉と言うのは……。
「ぼ、ぼくを……食べるの?」
 ようやく気付いて、怯えた顔をそれこそ恐る恐る上げるラッセル。
〈おうさ〉
 大きな灰色のオオカミは、鋭い牙も露わに、にたりと笑って応えた。
〈空から降ってくるなんざ、天の恵み以外の何物でもねぇ。食わなきゃそれこそ罰が当たるってもんだ〉
 言いながら、僅かに身を引いてコチコチのラッセルに顔を寄せる。鼻先で匂いを嗅ぐと、う〜んと幸せそうに目を細めた。
〈そっちのちびはおやつ。お前は晩飯に決定。さぞかし旨いんだろうなぁ〉
 ラッセルはたまらず震え上がった。
「……ぼ、ぼく、おいしくないよ。晩ご飯にもおやつにも向いてないってば」
〈へぇ……。お前、俺様の言ってることが解るのか〉
 ラッセルが半分、べそをかきながら発した言葉に、灰色のオオカミは少し驚いたようだ。けれども、それもほんの僅かな間のことだけで、すぐに人の悪そうな笑みを浮かべる。
 腰を落として、ぽんと前足を叩くと、
〈よし、そのことに免じて、お前に一回だけ、運試しのチャンスをやろう〉
 と言うのだった。
「……?」
 半べそ顔を不思議そうに上げるラッセルに向かって、にやにやしながら続ける。
〈大人しくそのちび助を渡せば、食べてる間だけ見逃してやる。そのまま見事、この俺様から逃げおおせれば、残りの人生を全うできるって寸法だ〉
 捕食者としての余裕を滲ませながら、そんな提案をする灰色のオオカミ。
〈どうだ? 悪い話じゃないだろ?〉
 その言葉に真っ先に反応したのは、かばんの中で震えながらも、しっかりと聞き耳を立てていたチターだ。びくっ! ひときわ大きな震えを残して、ぴたりと動きを止める。
 このトカリの男の子は、風に乗って空を飛ぶという特技を持っている。今は怖がっててそれどころじゃないみたいだけれど、オオカミの注意が少しでもそれれば、その拍子にひょいっと跳んで逃げられるかもしれない。そう思ったら、知り合って間もないキツネの子なんか、あっさり放り出しちゃうんじゃないか。
 だが、彼のそんな想像とは裏腹に、ラッセルはかばんを背中に回すのだった。そして、
「そ、そんな手に乗るもんか!」
 ありったけの勇気を振り絞って、にやける大オオカミを睨み付ける。想定外の成り行きに、口を半開きにして唖然となるオオカミに向かって、精一杯の啖呵を切った。
「どっちにしたって、その牙でぼくのこと、がぶってするつもりなんでしょ。これ以上いじめるなら、ぼくだって黙ってないんだからな!」
〈……言ったな、小僧〉
 対峙するオオカミの顔から、笑みが消えた。赤い目がぎらりと輝き、口元から低い唸り声がこぼれる。四つ足で構える体が、すうっと沈む。
〈ならばのぞみ通り、その頸、掻っ切ってくれるわ!〉
 ドスの利いた台詞を残してオオカミが跳躍するのと、目を閉じるラッセルが思いきり両手を突き出したのは、ほぼ同時。が、直後に響いた悲鳴は、意外にもオオカミのものだ。
 驚いて思わずかばんから顔を出したチターは、ラッセルの背中から恐る恐る前を覗き見て、さらに驚いた。大木の幹に叩き付けられたらしいオオカミが、地べたにへたり込んで呻いている。いったい何をしたのか、体が痺れて良く動けないらしい。
 当のオオカミ自身、相当に驚いているようだった。何とかして立ち上がった顔にあったのは、起こったことが信じられないという、戸惑いの表情。
 跳躍した瞬間、彼が目にしたのは、トカリの子供の小さな掌に走った、パチパチした光だった。「何だ?」と思ったのは、突風を肌に感じた後のこと。その時にはもう、彼の体は軽々と吹き飛ばされており、そのことを理解するよりも早く、したたかに背中を打ち付けていた——。
 くらくらする頭をラッセルに向けたオオカミは、彼が手にするものを目にしてギョッとなる。
 弓を構えたラッセルが、鋭い鏃の先をこちらに向けて立っていた。
「……いい加減、どっかに消えないと、お前の目玉を刺しちゃうからな」
 言うや、射角を下げて矢を放つ。すとん。乾いた音を立てて、前足の爪先ぎりぎりの所に突き刺さる。オオカミが慌てて飛び退く僅かの間に、ラッセルは早々と次の矢をつがえて狙いを定めていた。
「まだやるか!」
 半べそをかいていたのが嘘のような、堂々とした物言いに、口惜しそうに彼を見つめるオオカミは、とうとう諦めたのか、一歩、二歩と後ろに下がり始めた。ゆっくりと後ずさりながら、森の奥へと消えていく。がさがさと茂みを揺らしながら、慎重に、慎重に。
 やがて、その音も聞こえなくなった。ようやくかばんを抜け出したチターが、鋭い鼻と耳を使って辺りを探る。
〈……どうやらいなくなったみたいだ〉
 ひとしきり確かめ、ようやくそう判断して彼が振り向くと、ラッセルの全身から力という力が見る間に抜けて行った。