星のかけらを集めてみれば - お月さまとしっぽ -

作:澄川 櫂

2.風に乗って

「バケバケソウ?」
 聞き慣れない単語に、ラッセルは無意識に首を傾げた。植物の名前であることはなんとなく判るけれど、聞いたこともない。
 が、それ以上に、
「……ヘンな名前」
 そっちの方が気になるのだった。バケバケソウ。口の中で繰り返してみる。何だか面白い響きだ。
「ねえ、それって、どんな草?」
 一転して、興味津々の態で尋ねる。ころころと変わる表情に、子狐はまだ少し戸惑っているようだったが、それでも、
〈詳しくは言えねぇんだけど……。一年に一度、この森のどこかに生える、特別な草なんだ〉
 と、答えてくれる。
「ふーん」
 そんなチターの様子など知らず、分かったような分からないような顔で森の木々を見やったラッセルは、ふと気付いて、彼に視線を戻した。
「でも、こんな広いところ、どうやって探すの?」
〈匂いさ〉
 チターは、今度は誇らしげに答えた。背筋もピンと胸を張り、澄まし顔の先にある鼻を、右の前足でポンポンと叩く。
〈俺たちの鼻は、バケバケ草の生えてるところの距離と方角を、遠くからでも正確に嗅ぎ分けられるんだ〉
「へぇ〜。すごーい」
 目を丸くするラッセルに、さも得意げに胸元の白い毛を揺らすチター。が、それも僅かなことで、すぐにしょんぼりと項垂れてしまう。
〈でも、この足じゃなぁ〉
「……痛い?」
〈痛いのはまだ我慢できるんだけど、さすがに走れないから……〉
 と言って、悔しそうに森の一角を見つめる。
〈くっそー、もう日が傾いて来やがった。せっかくバケバケ草の場所が分かったってのに、こんなの酷いや〉
 半べそをかきつつ、チターは前足で地面をぽこぽこと叩いた。微かに赤みを帯びた空の様子に、そろそろおやつの時間であると気付いたラッセルは、彼に悪いと思いつつも、ついつい訊いてしまった。
「治ってからまた探すんじゃ、ダメなの?」
〈……そんなんじゃ俺、来年まで大きくなれない〉
 チターの絞り出すようなその言葉を聞いた瞬間、おやつを食べに帰りたいなぁ、などというラッセルの考えは、瞬く間に消し飛んでいた。
「それは大変!」
 大きくなれない。まだ五歳になったばかりの彼にとって、それは何より困ることである。
 ちらっとクッキーを見やったラッセルは、大きく一つ頷くと、チターに向かって言った。
「ぼくがそこまで連れて行ってあげるよ」
〈え……?〉
 意外な言葉にぱっと顔を上げるチターだったが、 
〈……気持ちは嬉しいんだけどさ、こっからじゃお前の足でも間に合いっこないよ〉
 そう判りきっているだけに、またもや力なく頭を垂れる。
 だが、
「大丈夫だって。信じてよ」
 それでもラッセルは、自信満々の顔でにっこりと笑ってみせるのだった。
「クッキー、ここからなら一人でも帰れるよね?」
 その言葉に不服そうな声を上げる魔犬を、「チターは怪我してるんだよ」と短く諭すと、蹲る子狐を両手で抱える。
「しっかり掴まっててね」
 袈裟に掛けたかばんに彼を入れると、ラッセルは両手を大きく広げて目を閉じた。
〈おい、何を……〉
 呆気にとられるチターがようやく言いかけたとき、彼の足もとから風が舞った。勢い良く放り上げられる感覚と共に、気付けば二人の姿は赤杉セコイアのてっぺんにある。
〈ええっ!? な、なんだ、これ?〉
「風の魔法だよ」
 びっくり仰天のチターに、事も無げに答えるラッセル。
「でも、ぼくまだ下手だから、急に話しかけたりしないでね」
 と言って、照れくさそうに苦笑い。
「——どっち?」
〈……あ。んと、あっちのほら、二本杉のあるあたり〉
 かばんから身を乗り出して、チターが遙かにそびえる、二本の杉の木を指し示す。
「おっけー。それじゃ、行くよ!」
 年相応の可愛らしい気合いを残して、ラッセルの小さな体が空に跳ねた。

〈はははっ、すげーっ! 俺、飛んでるよ。飛んでる!〉
 もうたまらないといった感じで、チターが歓声を上げた。いつもは見上げるばかりの木々を眼下に見下ろしながら、ぽつぽつとそびえる赤杉セコイアの枝から枝へ。弧を描いて跳んで行くラッセルの、肩から掛けたかばんに揺られる子狐にとってみれば、それはまるで大空に羽ばたく鳥になったかのよう。黄色の毛を撫でていく、風の感触が心地良い。
 と、その声が唐突に止んだ。先のラッセルの言を、今更ながらに思い出したのである。
 両前足で口を押さえ、恐る恐る、上目遣いに表情を伺うチター。けれども、尖耳人トカリの男の子はちらりと楽しげな瞳を向けただけで、特に気にする様子はなかった。
「よっ、と」
 赤杉の枝にゆっくりと両足で降り立つと、一呼吸置いて、足もとに円を描くように左手を回す。沸き上がるつむじ風が、彼の体を再び大空へと誘って行く。
「大丈夫だよ。そーゆーのは慣れてるし。それに……」
 気持ちよく風に乗るラッセルは、クスリと笑うと言った。
「今日は風もごきげんだからね」
〈そ、そうなのか?〉
「うん。だって、天気悪い日なんか、気をつけないとあさっての方向にすっ飛ばされちゃうもん」
 チターがうそ寒いものを感じたのは言うまでもないが、言った当人はそのことに全く気付いていない様子である。鼻唄交りに、赤杉の合間をぴょんと飛び越える。
 そんなラッセルを見上げるチターは、諦めたように、軽くため息を吐いた。そうして、しみじみと言う。
〈……にしても、お前、変わってるよな〉
「そお?」
〈そお、て……〉
 これにはさすがに、チターも呆れ顔で口を尖らせるのだった。
〈お前、不思議に思わないのかよ。俺たち、全然違う言葉で話してるんだぜ?〉
 チターの使う言葉は、普通、ヒトの耳には単なる鳴き声としてしか捉えられない代物である。仮に誰かが二人の会話を聞いたとしても、ラッセルが独り言を言っているとしか思わないだろう。
〈俺の場合は、大人達の話すの聞いてて覚えたから、まだ……〉
 言いかけて、慌てて口元を押さえるチターだったが、ラッセルがその何事か隠すような仕草を気に留めた様子はなかった。
「うーん……?」
 両腕を組んで、大きく首を傾げるラッセル。そろそろ枝に降り立つタイミングであるにもかかわらず、空を見上げて考え込んでしまう。
〈わわっ、前、前!〉
 迫り来る幹に、チターは慌てた。思わず両目を前足で塞ぐ。と、ラッセルは無意識にだろうか、ひょいと体を捻ってそれを避けた。片足で枝をぽんと蹴り、考え込んだ姿勢のままで、次の枝を目指して弧を描く。
 自分が無事に飛んでいると知って、胸を撫で下ろすチター。その耳に、ラッセルの呟くような言葉が聞こえてきた。
「——クッキーの言ってること、お姉ちゃん達には判らないらしいんだ」
〈……?〉
「あ、でもぼくも、豚さんや鶏さんとはお話しできないや。何でだろ?」
〈さ、さあ?〉
 反対にそう尋ねられて、チターは困った。彼としては、こうして話せること自体を話題にしたつもりだったのだが、当人はそれを全く不思議に思ってないらしい。
 微妙に噛み合わない会話に黙りこくっていると、ラッセルが不意に枝を渡る足を止めた。
〈……どうした?〉
 気でも悪くさせたかと心配になるが、
「のど渇いちゃった。ちょっと休憩」
 返ってきた答えは、実にのんびりとしたものだ。枝に腰を下ろすと、水筒の栓を抜いて、ごくごくと口をつける。
「チターも飲む?」
〈俺はいいや〉
 時間を気にしてそわそわしながら首を振るチターは、けれども、辺りを見渡してすぐに落ち着きを取り戻した。
 目的の二本杉は、もう目と鼻の先だ。バケバケ草の匂いもだいぶ濃い。これなら、小休止しても十分間に合うだろう。
〈あのさ〉
「ん?」
〈一つ訊いてもいいか?〉
「うん。なぁに?」
 栓をした水筒を離すラッセルは、枝に手をつき、足をぶらぶらさせながら、相も変わらぬにこやかな顔をチターに向けた。
〈その、お前の頭に巻いてるやつなんだけど……〉
「これ?」
 青いバンダナに手をやる彼に頷くと、ラッセルは見るからに嬉しそうな表情で教えるのだった。
「へへ。これ、誕生日のお祝いに、お母さんから貰ったんだ」
〈プレゼント……。母ちゃんの手作りか?〉
「ううん。スマリの村の知り合いが送ってきてくれたんだって」
〈やっぱり……〉
 その呟きに、ラッセルはきょとんと目を瞬かせた。
「何?」
〈い、いや、何でもない。ナンデモナイ〉
「……。ヘンなチター」
 妙に慌てる彼を不審に思うラッセルだったが、「ま、いいや」と、案外あっさりと流して立ち上がる。目の前にそびえる二本杉を見やってから、視線をかばんに落とした。
「で、どこ?」
〈あ……!〉
 ラッセルに言われて初めて、チターは思い出したように、くんくんと匂いを辿り始める。
〈二本杉の間の、向う側の……〉
 彼の鼻は、さして時間もかからず、目的のものを見つけ出していた。
〈あそこだ! あの、藪になってる所!〉
 チターが前足で指し示した先には、広場のように開けた所があった。そこに押し出されるようにして、低木や草葉がこんもりと生い茂っている。
「あれかぁ……」
 ラッセルの鼻にはもちろん、なんの匂いも届かない。が、目にした藪は他のそれと違って、ほんのりと青く輝いているようでもあり、なんとなく不思議な感じがした。
「一番下の枝に跳んだ方が良いかな?」
 少し視線をあげて二本杉を眺めると、そう当たりをつける。
〈だな。頼むぜ、ラッセル〉
「りょーかい!」
 チターに応えるや、ラッセルは枝を蹴った。風がその足もとを優しく押し上げ、彼の体を赤杉の中程、体重を支えられそうなものの中では一番最下層にある枝へと運ぶ。瞬く間に辿り着くと、少し弱めの風を起こして、トン、とも一つ枝を蹴る。
 かばんから身を乗り出すチターは、目を輝かせながら一心に目的地を見つめていたが、鋭敏な鼻が捉えた別の匂いに、つと顔をしかめた。
 まるで己の力を誇示するような、大きくて危険なこの臭いは——。
〈ラッセル、ストォオップ!〉
「へっ?」
 チターが不意に発した、せっぱ詰まったその声に、驚いて目を丸くするラッセル。もう、集中も何もあったものではなかった。
 彼を包んで優しく降ろそうとしてくれた風の衣は、見る影もなくきれいに消え失せ、替わって腕を伸ばした大地の力が、小さな体を掴んで地面に引き寄せる。
 何とか体勢を立て直そうと腕を広げるのも空しく、ラッセルの体はしりもちをつくような格好で、目的の藪の上に落ちていた。
「あたた……」
 ややあって、藪に埋もれた体をむっくりと起こすラッセルには、幸い、大きな怪我は見受けられなかった。大して高さがなかったせいか、擦り傷を作っただけで済んだようだ。ひりひりする感覚に涙目になりながらも、割合に元気な声で口を尖らせる。
「もー。チター、何なのさ」
 が、かばんの子狐は、彼の苦情にちっとも応えようとしない。
「……チター?」
 不思議に思って覗き込むと、鼻先をかばんの底に突っ込むようにして、ぶるぶると震えているではないか。
「どうしたの……?」
〈怯えてるのさ〉
 わけが分からず、きょとんとするばかりのラッセルに教えたその声は、チターのものではなかった。
 どすの利いた、低くて恐ろしげな声。次いで伝わる、生暖かい濃密な獣臭——。
「ひっ……!」
〈俺様の縄張りに降ってくるとは、見かけによらず、いい度胸してるじゃねぇか。坊主〉
 恐る恐る顔を上げたラッセルの前にいたのは、優に彼の三倍はありそうな、恐ろしげな顔をした一頭の獣。
 それは、灰色の毛並みも逞しい、大きな大きなオオカミだった。