機動戦士フェニックス・ガンダム

作:FUJI7

15 森の中の姉弟

「起きるのよ、エイト……」
 それはまるで、母のような声色だった。
 母のような……。それは、ジャンの記憶の中には無い単語だった筈だ。彼には母親に相当する人物との、接触の経験がなかったのだから。しかし、書物で読み、他人からの伝聞で、『母親』なる存在への羨望は膨れ上がっていた。
<あったかい……な………>
 薄目を開けて、菩薩の表情の金髪を見る。ナナがジャンを抱き、若く、堅い乳房だったがTシャツ越しにジャンの胸に押され、その弾力は、異性と言うよりも、母を感じさせた。
 野戦用簡易テントの中。
 何という安堵だろう。
 自分はここへ回帰する為に、今まで行動していたのではないか、とさえ思える。
「起きて………」
 ナナの呪文は耳元で囁かれ、ジャンの脳内に響きわたった。
 ジャンは目を開いた。
「お早う、エイト」
 ナナは愛する弟の耳朶を噛み、そして、もう一度、強く抱きしめた。
 ジャンはナナの愛情表現に朦朧となる。愛しい気持ちで一杯になる。お早う、と返答したいが、それが上手く言葉にならない。
 だから、ジャンは精一杯の行動を……自分の額をナナの体に擦り付ける。
 もどかしい気持ちはナナにも伝わり、稚拙なジャンの愛情表現は、堪らなくナナの心に火を点ける。
「ああ……エイト! エイト……」
 もう、何時間もこうして抱いているのに、ナナの独占欲は枯渇する事がない。今、エイト……ジャンを離してしまったら、再びテスに捕らえられ、自分とは関わりのない人物として作り替えられてしまうのではないか、と恐怖する。
 事実、エイトは自分の敵となって一度は対峙したではないか。これも、テスが悪い。
<ヤツもまた、エイトを欲している!>
 彼女のような年増でさえも魅了してしまう……。エイトの何処にその魅力があるのだろうか? とナナはジャンを見つめ、考える。
「な…に?」
 ジャンは赤面し、目を逸らす。初々しい少年の反応。
<これか!>
 ナナは脳髄が痺れるような感覚を得る。ジャンは、愛する者の為なら、命さえ投げ出して守り、支えてくれる一方で、純な心を『持たされて』いるのだ。女性なら誰でも持つ、『白馬の王子願望』と、『母性本能の発揮願望』を同時に満たしてくれる存在なのだ。事実、メリィ・ミリィも、言ってみればジャンの虜になっていた訳なのだから。
<エイトは奴等の私物ではない……>
 ナナは、自分もまた、私物ではない、と自分の存在意義を否定する。『強化』された事は、イコール、『誰かの為に』戦う為のロボットなのだ。戦う事は嫌いではない。だが、自分は何の為に戦ってきたのか?
<そう、エイトの為に、だ>
 その様にインプリンティングされているのもあるのだが、今のナナには、それだけが全てに感じる。それ以外に意義を感じないのだ。
 勿論、それが一般の人間の見地からすれば、寂しい事だ、との認識も、ナナには存在する。だから、フッと表情に出る………。
「あ………」
 ナナの翳りを感じたのか、ジャンが声を上げる。ジャンにとってのナナは、ナナが『姉だ』と名乗っただけで、本当にそうなのか、は自信がなかった。肌の色も、髪の色も、目の色も違う。ただ、ひどく懐かしい存在であることは間違いがないし、抱かれているのも気持ちの良いことだった。それだけで『姉だ』の一言は重みを持ってしまう。
 ジャンに刷り込まれていた記憶は、モビルスーツの操縦を繰り返していた事もあって、蘇りつつある。目の前にいる、金髪の少女は、自分が守らなければならない存在だ、とは判る。
<だが、待てよ?>
 と、頭の何処かが警鐘を鳴らす。
<姉、姉、姉、姉…………>
 姉とは誰のことだ? つい先ほどまで、自分が守らねば、と思っていた人物とは誰なのか?
《おい、ジャン。少しはネエ様の思いも理解してやんな………》
 意地の悪い声が聞こえる。『コードおじさん』の濁声だ。
 ネエ様? とは? 誰?
 ジャンは目の前の乳房と、頭の中の、決して美少女ではない女性を交互に見る。
<メ、リィ?>
 彼女はか弱い。目の前の女性とは比べ物にならない程に。金髪の『姉』は強い。心が強い、と感じる。金髪の姉は、自分で自分を守る事が出来る人物だ。有り余る力を持ち、それを発揮出来る。
<メリィ、は?>
 彼女こそ、自分が守らなければならない人物だ。ジャンはそう感じるのだ。彼の中の、『姉を守る』と刷り込まれた、戦闘への動機付けは、より弱い者、即ち、ナナよりもメリィの優先順位を高くしてしまう。
 だから、ナナが姉だ、とは認識できないでいる。
 だから、ナナを姉さん、とは呼べない。
「!」
 ジャンは体を硬直させ、そしてナナの腕から離れようとした。
「エイト?」
 ナナは不安そのものの顔で、腕に力を込める。彼を離してはいけない、と心が叫ぶ。
 ジャンはそれでも離れようとする。
 ナナは離すまい、とする。が、筋力はジャンの方がある。ナナの束縛を撃ち破ろうと藻掻く。
「エイト! お姉ちゃんの言うことが聞けないの!?」
 激しい叱咤だった。これは果たして魔法の呪文なのか、ジャンはピクッと体を振るわせると、ナナの腕の中に、従順に入り込む。
「………そうよ、いい子ね、エイトは………」
 ナナはジャンの髪を撫で、彼を離すまい、と、ギュッと抱きしめた。
 ジャンは、何故、彼女の言葉に逆らえないのか、疑問に思うのだった。

※本コンテンツは作者個人の私的な二次創作物であり、原著作者のいかなる著作物とも無関係です。