GoyouDa! - 冬の夜の大捕物 -

作:澄川 櫂

第6話 雪夜にバイバイっ

「……お姉ちゃん。痛い、痛いよ」
 しばらく続くかと思えた沈黙を破ったのは、およそ場の雰囲気にそぐわないマンジローの声だった。
「え? ああっ、ご、ごめん」
 それが、自分が彼の肩を強く握り締めているためと知った菜穂は、慌てて手を離すと小さく頭を下げた。件の女剣士が呆けた表情を作ったのは言うまでもない。
 だが、彼女が何を言うより早く、マンジローが再び口を開くのだった。
「あのさ、おばさん」
「おばっ……!」
 マンジローの呼びかけに、額に青筋を立てんばかりに表情を荒げる女剣士。
「ったく、失礼なガキね。何?」
「菜穂姉ちゃんに手出したらどうなるか、解ってるよね?」
 その目を背けたくなるような夜叉の視線に動じることなく、マンジローは意味ありげに問いかけた。一瞬、素に戻る女剣士が、再び呆れ顔でマンジローを見下ろす。
「何を言い出すかと思えば……。安心なさい。因果律を乱すほど、私は馬鹿じゃないわ」
「そっか、だてに歳食ってるわけじゃないんだ」
「なんですって!?」
 立て続けての口撃に、今度こそ額に青筋を立てる女剣士だったが、
「どうしたの? やらないの?」
 別の方角から不思議そうな口調で問われ、呆気にとられて振り返る。いったいいつ移動したのか、マンジローはアリーナの真ん中に立っていた。
「え? あれ?」
「フッ……」
 ただ驚くばかりの菜穂とは対照的に、女剣士は微かに鼻で笑った。あ、と菜穂が思ったときには、既に彼女は消えている。慌ててアリーナに視線を転じると、果たしてマンジローの正面に、手にした刀をもてあそぶ女剣士の姿があった。
「なかなか味なことしてくれるじゃない」
 彼女はゆったりと流れるような動作で、刀の切っ先をマンジローに向けた。鈍い光が刀身を伝い、薄暗い舞台に微笑をたたえたその口元を浮かび上がらせる。
「それじゃあ、始めましょうか」
「待って。一つ教えて」
「何かしら」
「あのおっさん、何者なの?」
 マンジローのその問いに、女剣士は少し考える素振りを見せてから答えた。
「さて。技術と財力のある変人学者、と言ったところかしら」
「ふーん……」
 途端につまらなそうな表情を作るマンジロー。だが、それも僅かな間のこと。ふと何かに気付いたらしい彼は、にたぁと意地悪そうな笑みを浮かべる。ゲームで圭助を打ち負かしたときに見せた、あの顔だ。
「おばさんもよく知らないんだね」
 その瞬間の彼女の顔は、それこそまさに見物であった。無礼な物言いへの怒りと、真実を突かれて何も言い返せないことに対する悔しさ。それら様々な感情がない交ぜになった表情。そうして茹でたタコのように真っ赤になる女剣士に、菜穂も思わず噴き出しそうになる。
 だが、
「……減らず口もそこまでにして貰いましょうか」
 ややあって口を開いた女剣士の、静かに通る低い声に、菜穂の背筋は一瞬にして凍り付いた。これが殺気というものなのだろうか。ピン、と張りつめた空気が、身動きとれぬほど固く、菜穂の体を縛り上げる。
「口は減らないもんだと思うけどなぁ、おばさん」
「一つ、忠告しておいてあげるわ」
 それでも飄々とした感じのマンジローに、もはや怒りを隠そうともせず、刀を握り直して女が言う。
「口の利き方を知らない子は、長生きできないって事をね!」

 風が鳴る。空気が震える。研ぎ澄まされた斬撃は、煌めく刃となって獲物を狙い、風鳴り音が切り刻む隙を窺いながら後を追う。
 それを右に左にかわすマンジロー。きわどい一閃を十手の鈎で押さえ込み、大の大人に根比べを申し込む。その予想以上の力強さに、刀を振るう女剣士は、感嘆の声音と共に口を開いた。
「さすがは敏腕で名の通った万次郎。子供と知ったときはどうかと思ったけれど、評判に違わぬ腕だこと」
 口元に薄ら笑みを浮かべると、目線を僅かに己の差し料に移して続ける。
「こんな安物に血を吸わせるには、勿体ないくらいだわ」
「その刀、戦国末期の大業物とお見受けするが?」
 とは、刀を受け止めている十手の十兵衛の言。ボックス席の最前列で、手摺りから身を乗り出して二人の戦いに見入る菜穂には、もちろん刀の良し悪しなど判らない。それでも、大振りで年季の入った彼女の得物が安物であるとは、とても思えなかった。
 十兵衛が言外に問うたのと同じ疑問を抱いた菜穂は、好奇のまなざしで女剣士の反応を待つ。けれども、彼女は菜穂の期待とは裏腹に、鼻で笑うばかりであった。
「まさか。これは、現代の刀工が作った戦を知らぬ観賞用。名刀には違いないけど、骨董的には値踏みする価値もない代物よ」
「何……?」
「もっとも、その頃の空気に充分馴染ませてあるから——」
 言いながら鋭い蹴りを繰り出す女剣士。たまらず後ろに跳んで逃れるマンジローの、電磁投網を一閃の下に斬り捨てる。
「鑑定仕損ねるのも無理ないわね」
「お主、運び屋でござるか」
「運び屋とは、ずいぶんと軽く見られたもんだこと。プレミアトレーダーのケイ・オファール。価値の低い物を扱うほど、せこい人間ではなくってよ」
 余裕の笑みで刀を構え直す彼女は、ようやく名乗りを上げるのだった。
「ケイ・オファール……?」
 マンジローは小首を傾げた。
「なるほど、確かにただの骨董商人ではないようでござるな」
「知ってるの?」
「調べた。転送するぞ」
 十兵衛が言うや、マンジローのメットのバイザーがほのかに明るくなる。
「えーっと、『ケイ・オファール。三十四歳、独身。古美術商を営む傍ら、希少文化財の発掘にも力を入れており、幾多の功績から考古学会に名誉会員として名を連ねる。ただし、その入手経緯には不審な点も多く、次元法違反の疑いで内偵中』。……どういうこと?」
「発掘した物の多くが実は贋作。つまり、作り物ではないかという疑いだ」
「ふーん」
 相方の説明に、どこかつまらなそうに応えるマンジローは、ややあって、
「おばさん、詐欺師だったんだ」
 出し抜けに言うのであった。これにはさしものケイ・オファールも虚を突かれたらしく、間の抜けた表情を作る。だが、すぐに顔を真っ赤にすると、怒りも露わに口を開いた。
「本ッ当に失礼なクソガキね。名の知れたハンターと思えばこそ、敬意を持って接してやったけど、それもここまでにさせて貰うわ」
 音もなく地を蹴るオファール。
「さっさとこいつの錆におなり!」
 振り上げる一刀は風を切り、薙ぎ払う一閃が空を裂く。鋭い切っ先は月明かりを受けて鈍く瞬き、観戦する菜穂の心胆を凍らせる。しかし、マンジローは足で飛び手で跳ねそれを避け、かすり傷一つ許さない。
「チッ、ちょこまかと」
 苛立ちを隠せないオファールに、のんびり口調で尋ねるマンジロー。
「ねえ、どうしてすぐに戻らなかったのさ?」
「何?」
「すぐに戻ればバレなかったかもしれないのに」
 その問いに、オファールは鼻で一つ笑って答えた。
「言ったでしょ。価値ある物しか扱わないって」
 十手と刀のかみ合う音が、甲高くアリーナに響き渡る。
「この刀の依頼主は、実際に人の血を吸ったやつをお望みでね。関ヶ原あたりで拾ってくる手もあったけど、鑑賞に堪える代物を探すのは骨だし、だいたい、そんな簡単でつまらない仕事は、この私のプライドが許さない」
 再び力比べを演じつつ、
「だからわざと居場所を明かして、あんた達をおびき寄せたってわけ。業界で名の知れたあんたを倒せば、私の名声は嫌でも上がる。その上で、金も入って一石二鳥、って寸法よ」
 したり顔でせせら笑う。マンジローは信じられない物でも見たかのように、目を丸くするのであった。
「そんだけ!?」
 意外の響きを残して離れると、心底呆れた視線をオファールに送る。
「ばっかみたい。そんなくだらないことで危険な橋を渡るだなんて、おばさんよっぽど捕まりたいんだね」
「なんですって!?」
 いきり立つ彼女の一撃を軽くいなして、
「だっておばさんの剣、全然ぼくに当たらないじゃん。ハンターはぼく以外にもたくさんいるから、そのうち誰か手伝いに来るよ。そしたら、おばさんの負け。違う?」
 と、意地の悪い笑みを見せる。
「……確かに、このままやってたんじゃ、私に勝ち目はないわね」
 そんなマンジローを、しばし険悪な瞳で睨み付けるオファールであったが、
「でも、こうしたらどうなるかしら?」
 何を思ったか、手にした刀を突然、菜穂に向かって放り投げた!
「えっ!?」
 気付いたときには、蒼く照り輝く鋼はそこにある。迫り来る白刃に、ただ立ち尽くすことしかできない菜穂。
「お姉ちゃん!」
 マンジローが体ごとぶつかってくれたおかげで事なきを得るが、倒れ込んでもなお、呆然と我を忘れて動けない。
 そんな菜穂を引き戻したのは、ややあって響いた一発の銃声だった。はっと顔を上げた先には、十手を持つ手で反対の掌を押さえるマンジローの姿。頬から血を流しているのは、菜穂を狙って放たれた刀がかすめたからか。
 と、カランという甲高い音が聞こえた。反射的に振り向く菜穂の視界に、マンジローの物であるはずの銃身のない拳銃が床を跳ね、滑って行く様が映る。それを足で止めたオファールは、こちらはリボルバータイプの銃口をマンジローに向けつつ、ゆっくりとそれを拾い上げるのだった。
「ネットガン。確か、あなた達がハントの締めくくりに使う、大切な道具だったわよね」
 目を細め、曰わくありげな笑みを浮かべると、不意に宙に放り上げる。次の瞬間、彼女の手からリボルバーが消え、替わって先ほど菜穂に向かって投げた刀を握る。手品のような妙技に驚く間もなく、マンジローの銃を一刀両断!
「ああっ!?」
「これであなたに、私を捕まえることはもうできない。切り札なしで、その上そんなお荷物まで抱えて、応援が来るまで保たせられるのかしら?」
 驚く菜穂ちらりと見やって、オファールが言う。一方のマンジローは、彼女の言葉に顔色一つ変えることなく、左腕を上げて素早く振り下ろす。腕時計からのびるワイヤーが、女剣士をしなやかに、袈裟懸けに狙うが——。

 キィィィン……

 見事オファールを打つかと思えた直前、ワイヤーはその体に触れることなく、弾き飛ばされてしまった。
「それもお見通し。もっとも、あなた達ハンターは殺生を禁じられてるから、当たったところでかすり傷でしょうけど」
 さすがに目を見開くマンジローに、彼女は勝ち誇ったように言葉を続ける。
「さあ、いい加減観念なさいな。でないとその娘を本当に傷つけちゃうから」
「ちょっ、ちょっと待ちなさいよ!」
 その理不尽な脅迫に、菜穂はたまらず叫んだ。
「あなた剣士なんでしょ!? だったら、正々堂々と勝負しなさいよ! マンジロー君と関係ないあたしを人質にしようとするなんて、卑怯よ!」
「卑怯? 相手の弱みを突くのは、戦いの基本中の基本ではなくて?」
 しょうがないわね、とでも言いたげな表情で応えるオファールは、
「だいたい、勝手に付いてきて勝手に足手まといになったのは、どこの誰だったかしら」
 と、実に皮肉っぽくやり返す。
「うっ。それは……」
 言われてみればその通りである。あの時、十兵衛の言うことを聞いてマンジローを追いかけずにいれば、自分が脅迫の材料になってしまうこともなかったはずだ。後悔の念に押され、言葉に詰まった菜穂は、申し訳ない視線をマジローに送ることしかできない。
 だが、そんな菜穂の思いとは裏腹に、マンジローはにっこりと笑ってみせるのだった。
「大丈夫、お姉ちゃんはなんにも悪くないよ」
 菜穂を安心させるように言うと、今度はキッと視線も鋭く、オファールを睨み付ける。
「おばさん、だいぶ勉強してきたみたいだけど、まだまだぼく達のこと、調べ足りないみたいだね」
「何……?」
「じゅうべえ!」
「承知!」
 マンジローに応える十手の鈎が、音もなく垂直に折れる。それを軽く持ち直して地を蹴るマンジロー。まきびしのような物を辺りに撒きつつ、巧みにオファールとの間の距離を取る。
 と、まきびしが弾けた。そこここらで白煙が上がり、マンジローの姿を隠してゆく。
「フンッ……」
 それをつまらなそうに鼻で笑うオファールは、
「解ってないのはあなたの方ね。私のバリアーには、こういう使い方もあるのよ」
 言うや、刀を力任せに振り払った。同時に突風が吹き荒れ、スモークを一瞬にして霧散させる。白煙の向こうからおぼろげに現れる人影一つ。
「そこか!」
 即座に距離を詰めたオファールが、逃げる間を与えることなく得物を叩き降ろす。大きく目を見開くマンジローの体が、一拍おいて二つに割れた。
 声にならない悲鳴を上げて顔を伏せる菜穂。だが、マンジローを仕留めたはずのオファールは、忌々しげに舌打ちするのだった。摺り足で移動しつつ、注意深く辺りを窺う。
 そんな彼女の気配に気付いて、菜穂は恐る恐る顔を上げた。アリーナが視界に入るや、「あっ」と短く声を上げて目を見張る。
 二つになってそこに転がっているのは、表でマンジローが使ったバズーカ砲だった。傍らに彼の顔を描いたカードが落ちている。それはたぶん、昼間にマンジローから見せられた、エイリアンを描いたカードと同じ質のもの。
「変わり身とは味な真似を」
 ゆっくりと視線を巡らすオファールの呟きが、菜穂の耳に届く。
「……どこだ?」
「ここだっ!」
 オファールがどこへともなく問いかけた瞬間、まるでその問いに応えるかのように、別の声がホールに響いた。菜穂とオファールの視線が、揃って声の元を向く。そして二人は、共に我が目を疑うのだった。
 オファールの背後から白煙を突き破って飛びかかるのは、菜穂と同年代とおぼしき青年である。日焼け顔に茶髪をなびかせ、プロテクターに身を包んだ姿はマンジローを連想させなくもなかったが、手にした武器は十手ではなく光の剣。薙ぎ払う太刀筋は弧を描き、受け止めるシールドもろともオファールを斬り裂いた!
「何ィっ!?」
 よほど信じられないのか、眉間に深いしわを刻んで呻く彼女だったが、自らの受けた傷を目にした途端、その顔色が恐怖に染まる。
 青年に深く斬られた胸元からは、不思議なことに出血はなかった。ただ、傷口が陽炎のように揺らめくばかり。
 いや、それだけではなかった。
「——まさか、これは……!」
 狼狽するオファールの、胸元に穿たれた裂け目から、彼女の肉体が粉となって流れてゆく。淡く光るその粉はだが、足下に達することなく霧散するのだった。まるで虚空に溶けるように。
 息を呑んで見つめる菜穂の目の前で、青年の姿もまた、幻のごとくかき消えた。代わってそこに現れたのは、十手を両手で構えたマンジロー。
「お縄につけぇっ!」
 彼の気合いの一撃が、よろめくオファールを捉えた。十兵衛が蒼く輝き、鈎の谷間より発せられる稲妻じみた光線が、幾筋にも、幾重にも渡って、女剣士の全身を絡め捕る。
「強制転……あぁぁぁぁぁっ!!」
 遂には光る人型と化すオファールの口から、苦悶の叫びが迸った。同時に彼女を覆う光が輝きを増す。眩しさのあまり、無意識に腕をかざして目を伏せる菜穂。と、響き渡る悲鳴が唐突に止んだ。
 なんとか薄目に様子を窺うと、光源に浮かぶ人影の崩れる様が見えた。徐々に薄れる光と共に、砂塵の如く散ってゆく。
 やがて、視界に映るアリーナが元の平穏を取り戻した時、そこには大きく深呼吸をする、マンジローの小柄な姿があるばかりであった。
「さ、お姉ちゃん、戻ろう」
 くるんと振り向くマンジローは、言ってにっこりと微笑んだ。

 ふと我に返ると、菜穂は中央エントランス前の小広場に立っていた。視界に航空障害灯を赤く明滅させるビルが見え、次いで高架を走る電車の音が耳に届く。現実を運ぶ冬の夜風は、コートを忘れた菜穂の襟元を、容赦なくなでていった。
「寒っ!」
 慌てて首と手をセーターに引っ込めると、菜穂はその場で飛び跳ねた。両腕でぎゅっと胸を抱き、背中を丸め、少しでも寒さを和らげようと試みる。
 ささやかすぎる努力を重ねる菜穂は、不意に「あ」という短い声を聞いた。誰かの転ぶ音が続く。跳ねるのを止めて振り向くと、尻餅をついたマンジローの、両手で腰をさする姿が目に入る。
「マンジロー君!? ……大丈夫?」
「へへっ、さすがにちょっと疲れちゃった」
 心配して駆け寄る菜穂に、マンジローは照れ笑いを浮かべて応えた。
「あれやったの、久しぶりだったから」
 差し出された菜穂の右手に、両手で掴まりながら言う。とっさになんのことか判らない菜穂だったが、程なく「あれ」の指す事柄に思い至って、信じられない面もちでマンジローを見た。
「まさか、さっきの女の人を斬ったのって……」
「そ、大きくなったぼく。かっこいかったでしょー」
 果たして、マンジローはこともなげに肯くのだった。パイザーを上げ、見るからに誇らしげな笑みを返す。
 自分を見上げる少年の無邪気な表情に、菜穂の顔も自然と綻ぶ。だが、口を開きかけたところで、菜穂はそのまま固まってしまった。
 マンジローの全身から溢れ出る黄色い光。天に昇る光の粒子は、風に舞いながら夜の空へと溶けてゆく。
 その様子を文字通り息を呑んで見つめる菜穂。一方、当の本人はのんびりしたもので、
「あれ? もう終わったんだ」
 粉のように徐々に崩れる自分の腕を見ながら、僅かに小首を傾げるばかり。
「一人少ないような気もするけど……。ま、いっか」
 言って菜穂に視線を戻すマンジローは、にっと歯を見せて笑うのだった。
「マンジロー君、あなたは一体?」
 さすがに薄気味悪くなった菜穂の口から、その言葉が漏れる。
「へへっ、ナイショ」
 返ってきたのはマンジローお得意の言葉だった。呆気にとられて目を瞬かせる菜穂は、ややあってがっくりとうなだれた。
 昨日の晩に飽きるほど耳にした文句。要所を締めたその台詞を引き出すのに、彼の正体を問うことほど相応しい行為はないだろう。
「……あう」
「あははっ!」
 そんな菜穂の反応がよっぽど面白かったのか、マンジローは実に愉しげに腹を抱えた。金色を帯び始めた光の粒子がぱぁっと広がる。憮然とする菜穂をよそに、けらけらと笑い転げるマンジローだったが、不意にその声が止んだ。それに気付いて菜穂が顔を向けると、いつの間にこちらをじっと見つめる少年の瞳と目が合った。
「な、何……?」
「でも、一つだけ教えてあげるね」
 澄んだ瞳にちらりと浮かぶ、いたずらな響き。
「2239年11月10日」
「……?」
「ぼくの生まれた日」
「え?」
 耳を疑う菜穂に微笑んでみせるのもつかの間、マンジローは音もなく地面を蹴った。同時に彼を包む光が輝きを増し、ぱっと弾けて跡形もなく夜空に霧散する。
「じゃあねっ!」
 明るく陽気な声を後に残して。
「……マンジロー君、未来から来たんだ」
 寒さも忘れて呆然と空を見上げていた菜穂が、ようやくそう呟くまでに、どのくらいの時が経っていただろうか。
「菜穂!」
 寒空の下で立ち尽くす菜穂を現実の世界に引き戻したのは、自分の名を呼ぶ圭助の声だった。
「……? 圭助?」
「どこ行ってたんだよ、菜穂。急に姿が見えなくなったから、俺、心配で……」
 両手を両膝に当て、肩で息をしながら圭助が言う。どうやらずっと駆けずり回っていたらしい。
 ようやく息を整えて顔を上げた圭助は、そこにマンジローの姿がないのを知って、尋ねた。
「あれ? あいつは?」
「……。帰っちゃった」
「帰った? どこに?」
 まだ少しぼんやりした様子で応える菜穂に、怪訝顔で問いを重ねる圭助。
 未来に。そう口に出しかけた時、なにやら白い物のちらつく様が、菜穂の視界に入った。再び天を見上げれば、僅かに雲のかかった冬の夜空から、粉雪が静かに舞い降りてくる。
 ふと、片方の手のひらを上に向けてみた。受け止めた粉雪は、すぐには融けず、しばし肌と戯れる。菜穂にはそれが、なぜかしらマンジローからの贈り物のように思えた。

 ナイショ——

 どこかから例の決まり文句が聞こえた気がして、思わずくすくすと笑ってしまう。
「ずうっと遠いところ」
「はあ?」
「ナイショ」
 きょとんとする圭助にもう一つ笑うと、菜穂はふわりと舞う粉雪に小さく声をかけた。
「バイバイ、マンジロー君」